スマトラ横断鉄道 (Trans Sumatra Railway)

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●最新記事: JSPとなった鉄道連隊の戦後―佐世保上陸まで―

  • 基点:ペカンバル(Pekanbaru)
  • 基点:ムアロ(Muaro)
  • 開通:1945年8月15日
  • 距離:220km (支線を含むと255km)
  • 軌間:1000mm (1067mmという説もある。詳しくは「建設目的」の項参照)

大日本帝国がアジア太平洋戦争中に占領したスマトラ島で建設した鉄道。統一された呼称はなく、単に「ペカンバル鉄道」、「ペカンバル=ムアロ鉄道」、起点と終点を逆にして「ムアロ=ペカンバル鉄道」と呼ばれることもあるほか、「中部スマトラ横断鉄道」、「スマトラ鉄道」、「スマトラ中部鉄道」などとも呼ばれる。また、地名のペカンバルは史資料などで旧名のパカンバル(Pakanbaroe)と表記されることが多い。ここでは「スマトラ横断鉄道」と称する。


鉄道を思いつき、ルートを決めたのは元国鉄技師で国会議員を勤めた増永元也。1942年6月、増永らのスマトラ視察が具体的なきっかけとなった。鉄道建設は大本営の認可を得ないまま、南方軍第25軍の軍政部の鉄道局の管轄で、国鉄技師などの軍属、民間建設会社の手で進められた。ジャングルを切り開き、測量や実際の鉄路建設に当たったのはジャワ島などから甘言や虚言、時には脅迫で駆り集められた奴隷労務者(ロームシャ)だった。

1943年12月、東京の大本営は鉄道建設を許可した。これを受け、翌年には鉄道連隊が派遣され、連合国の戦争捕虜が多数動員された。過酷な労働、劣悪な環境の中で、膨大な数の奴隷労働者、捕虜がジャングルに命を落とした。この鉄道は、同じようなやり方で建築された泰緬鉄道にならい、「第二の泰緬鉄道」と呼ばれたり、「死の鉄道」と呼ばれることもある。

この鉄道については判っている事もあるが、合意された名称がないことが象徴するように、同じように建設された泰麺鉄道に比べ、史的な合意がかつての敵同士の間になされていない事もたくさんある。日本だけでなく、国際的にもほとんど認知されていない。資料を集めた博物館もなく、鉄道跡にモニュメントがいくつかあるだけで、現地でもその存在が知られているとはいいがたい。

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The man who designed the railway

Who, in the Japanese army, came up with the idea to build a railway through the jungles of Sumatra? and why that exact route? Why Pekanbaru? Or for that matter why Muaro, instead of Payakumbuah? And more to the point, for what purpose?

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JSPとなった鉄道連隊の戦後―佐世保上陸まで―

スマトラ横断鉄道建設には階層の違うさまざまな人々が、使役されつつ使役するという支配構造のもと、労働に従事した。使役する側の日本人には軍人、軍属、企業社員がおり、それぞれにはさらにいくつかの階級があった。使役される側の日本人以外では、朝鮮人軍属、インドネシアの兵補やロームシャ、オランダ人捕虜などが労働に服していた。

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オハーン父娘の受難 ―「慰安婦」「順陽丸」「スマトラ横断鉄道」―

アジア・太平洋戦争中における「慰安婦」問題では、元「慰安婦」本人の直接証言が長い間得られなかった。しかし、1991年に韓国人金学順が「慰安婦」であったことを名乗り出、続いて自ら「慰安婦」に貶められたことを明らかにしたのが、オランダ人ジャン・ラフ=オハーンであった。

ウィキ比較1:インドネシア語版

スマトラ横断鉄道について、日本語以外のウィキにはどう書いてあるのか、比較してみることにした。きっかけは、日本語版のウィキペディアにスマトラ横断鉄道についての項目が存在しなかったので、このサイトと並行して文章を書き、投稿したことだ。 “ウィキ比較1:インドネシア語版” の続きを読む

ウィキ比較2:オランダ語版

スマトラ横断鉄道に関する歴史は日本語以外の言語ではどのように書かれているのか、それぞれのウィキを比較するシリーズの2回目は、日本の侵略当時スマトラ島など現在のインドネシアを支配していた宗主国のオランダ語のウィキ“ウィキ比較2:オランダ語版” の続きを読む