1920年のno.19

この鉄道に興味を持ち、気になった最初のことは、日本軍がどのようにしてこの鉄道のルートを決めたのか、だった。専門家、歴史家、誰彼かまわず,ことあるごとに同じ質問を繰り返した。びっくりしたのは,この問いに誰も満足に答えることができなかったことだ。基本的なことだが,分かっていないのだ。

インドネシア、オランダや英語圏の研究者のあいだでは、日本軍はスマトラを侵略し、オランダの計画を何らかの手段で入手したと信じられている。いわゆる「オランダの計画」が具体的に何を指すのか不明だが,その程度についても,いろいろな説がある。

ある研究者は,日本軍は侵略以前鉄道建設を考えておらず,「オランダの計画」を入手してから初めてそれに取りかかったと主張する。いや,日本軍は侵略以前から鉄道の建設を考えていたが,具体的になるのは「オランダの計画」を入手してからだ。中には,日本軍の路線の85%は「オランダの計画」の模倣だという鉄道史の専門家もいる。

これらの説が出てくる背景には、オランダ植民政府の鉄道局が西海岸から建設を始めた鉄道を東へ延ばそうとして、1870年代から何人もの技師を調査に派遣し,ルート開拓にあたり、費用計算などを行っていたことがあるからだ。日本軍侵略以前に、島の東西を結ぼうという意図があったことは確かなようだが、どれも費用がかかる割には見返りが少ない,という理由でお蔵入りになったというのが通説だ。

「オランダの計画」を日本軍が模倣したのなら,オリジナルが存在するはずで,それと実際のルートを比べれば一目瞭然だろう。その上で,日本軍の誰がどんな経路で入手したのか、探っていくことができる。しかし、これまでのところ,通説として信じられているのは,侵略した日本軍がオランダ植民政府の鉄道局の書架にお蔵入りになっていた「計画」を見つけ,これ幸い実行に移したというのだ。話としては面白いし、ありえないことではないが、いまだに「オランダの計画」というのが何を指すのかわかっていない。その「計画」が見てみたいが、史料が提示されない限り,この説には懐疑的にならざるをえない。

そうした中で,頻繁に話に出てくるのが,1920年代にルート開拓にジャングルに分け入ったとされるW.J.M. Nivelの報告書、Staatsspoorwegen no.19 というものである。頻繁に言及されるからには,これがネヴィルの報告書で,提案したルートであるとはっきり示す史料がありそうなものだけど,まだ一度もお目にかかっていない。

1927 what?.jpgしかし,古い地図を見てたら,これと同じ番号の報告書に基づく地図を見つけた。この地図には「Behoort bij het “Verslag eener Spoorwegverkenning in Midden-Sumatra” Mededeelingen Opnama No.19. (中部スマトラの鉄道路線の可能性を調査した測量の第19報告書に基づいて作成した)」と書かれている。この地図がネヴィル報告書に基づくものなのかどうか分からないが,鉄道の可能性を探るために行われた測量報告に基づくものであるのは確かだ。「オランダの計画」のひとつには違いないのである。ネヴィルの報告書は1927年の出版とされるが,この地図の出版は1920年であるので別物かも知れない。もっとも,この地図を公開するレイデン大学のサイトはこの地図を1927年としているので,それが誤って伝えられた可能性もある。

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この地図に記される「計画される路線」「検討中のルート」と実際に建築されたスマトラ横断鉄道の決定的な相違点は,前者はタルック(地図上ではTaloekという綴り。現在はTalukと綴られる)を経由することだ。ここが実際に建築された鉄道とは大きく異なる。日本軍が建設した線路はムアロを出て,シルカ(Silukah),ピントゥバトゥ (Pintubatu)を経て,ルブ・アンバチャン(Lubuk Ambacang)までクアンタン川に沿うように進み、そこからタルックに向かわず,東北方向、ロガスへ向かっている。第19報告書に基づく1920年の地図で赤い実線はタルックに伸びている。

east west 1927

そしてもうひとつの違いは島の東,マラッカ海峡の港をどこにするのかという選択だ。日本軍の線路はペカンバルを港に選んだ。だから,路線はルブ・アンバチャンから東北に向かい,ロガスからペカンバルへ北上した。しかし、1920年の地図も含め,この時代の「計画」のほとんどはペカンバルではなく,タルックからそのまま東へ向かい、レンガットを経てテンビラハンにいたるルートを想定する。「オランダの計画」はムアロからペカンバルではなく,ムアロからタルックを経由しテンビラハンに至る。

この地図に記載される東海岸へのルートってどこかで見たことがあると思ったら,1925年に蘭印の植民地における鉄道の50周年を記念して出版された本「Staatsspoor en Tramwegen in Nederlandsch-Indie 1875-1925」に載っている地図とそっくりである。ほかの「検討中の路線」も瓜二つ。ふたつの地図は間違いなく,同じ第19報告書に基づいて描かれている。そして、これは日本軍の建設した路線とは似ても似つかない代物だ。

これがインドネシアやオランダの研究者たちが口にする「日本軍が侵略後に発見し、流用したとするオランダの計画」なのだろうか。それともこれ以外に「オランダの計画」があるのだろうか。

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