スマトラで投降した捕虜を輸送した船、横断鉄道に捕虜を運んだ船のリスト。間違いや新たな事実が分かり次第、改定の予定。ご存知のことがあれば、ぜひご一報を。
<スマトラで投降した捕虜を輸送した船>
●英蘭(いんぐらんど)丸 山下汽船
1917年から20年にかけ川崎造船で75隻作られた大福(たいふく)丸型の貨物輸送船。長さ117.35メートル、幅15.54メートル、総トン数5,829トン、最大速力はおおよそ14.3ノット。44隻の大福丸型輸送船が徴用され、マレーやジャワ、ラングーン侵攻に兵士や兵器を運んだ。
この型のうめ丸(建造時は坡土西丸)、せれべす丸、すまとら丸、しんがぽーる丸、仏蘭西丸、長門丸、ぱしふぃっく丸、第一眞盛丸(?)、新嘉坡(昭南)丸の10隻が捕虜を運ぶ地獄船に使われた。
英蘭丸(発音はいんぐらんど丸、英語表記はEngland maru)は42年4月2日、鉄9の第4大隊の約500名の鉄道兵をシンガポールからラングーンに輸送した。11日到着(光と影 p13)。やがて泰側から泰緬、その貫通後43年末にはクラ地峡、そして44年4月からはスマトラ横断鉄道の現場で捕虜やロームシャを使役し、鉄道の建設にあたった部隊だ。
この船は合計3回、捕虜輸送に使われた。
最初は42年5月、パダンで投降した500人の英人捕虜(スマトラ大隊)をベラワンからビルマ、テナセリウムに運んだ。蘭人捕虜を積む極星丸、シンガポールから豪人捕虜3千人を運ぶせれべす丸と豊橋丸が同行。この4隻で運ばれた5千人が泰緬に投入される目的で最初に移送された捕虜だ。
2回目は8月、シンガポール敗軍の将、パーシバルやスマトラから蘭軍司令官のオフェルアッケル(銘々票はオーバーラカー)やゴセンソン(Gossenson )など「現地に置くを適当とせざる高級将校」400人がマレーやスマトラから集められ、シンガポールから出港した。パレンバンからも127人の将校がシンガポールに送られた、という記述もある。
台湾到着後、ほとんどが花蓮港(台湾4)に送られたが、5人は屏東市(台湾3)に収容された。この航海には技術者捕虜を積む福海丸が同行。
3回目は10月、英人捕虜1100人(Z部隊)をシンガポールから基隆へ輸送。
英蘭丸は泰緬への最初の捕虜をスマトラから運んでからちょうど1年の43年5月17日、宇品からラバウルに向け4隻の船団(甲南丸、長野丸、大日丸)で航行中、ニューギニアの北、マヌス島の沖で米潜水艦グレイバック(Grayback)の雷撃を右舷に受けた。5番船倉のガソリンに引火、沈没した。船員13名と乗船部隊232名が戦死した(戦時船舶史 p23)。
●旭盛丸
5493総トン、大同海運。1920年、カナダ、バンクーバーでMargaret Coughlanとして進水。41年10月、陸軍に徴用される。マレー、ジャワ侵攻に参加、42年4月、ラングーンの第2船団の一員でシンガポールから兵の増員を運んだ。5月、ベラワンから蘭人捕虜をビルマに運んだ。出港がパダンという記述もある。
43年3月、旭盛丸は81号作戦(第一次ラエ輸送作戦)に参加、ダンピール海峡で米軍機の空爆を受け、8隻の船団、駆逐艦4隻とともに撃沈された。積んでいた兵員1316名のうち464名が船員1名、船砲隊21名とともに戦死した(戦時船舶史 p58)。
写真(Margaret Coughlan 時代。City of Vancouver archives)と船歴。
●せれべす丸
せれべす丸は英蘭丸と同じ大福丸型の輸送船。5863総トン、大阪商船。
42年5月、シンガポールから豪人捕虜(A部隊のラムゼー部隊)千人をビルマに輸送した。
同じ年の10月15日、シンガポールからビルマのモールメンに豪人1500人(ウィリアムス部隊)を輸送。ウィリアムス部隊はジャワからシンガポールに運ばれたジャワ部隊3(JP3)の捕虜。
せれべす丸は44年11月、第三次レイテ特攻輸送作戦に参加、フィリピンで座礁、B24などによる空爆で沈没。
●豊橋丸
7031総トン、日本郵船。
A部隊の豪人1017人(グリーン部隊)をビルマに運んだ帰り、6月4日、英潜水艦トラスティ(HMS Trusty)の雷撃を受けて沈没。船砲隊16名、船員1名が戦死(戦時船舶史 p173)。
すでにこの海域はセイロンを基地とする英潜水艦が跋扈する危険な海だったが、4隻の船団(英蘭丸、せれべす丸、旭盛丸)に護衛はついていなかった。
これ以前にも4月1日、八重丸と春晴(しゅんせい)丸がシンガポールからラングーンに向かう途中、ペナン沖で英潜水艦トゥルアント(HMS Truant)の雷撃で沈没。豊橋丸が沈没したひと月後の7月3日、トゥルアントの砲撃で第一多聞丸(3018トン)が座礁、沈没した。
●治菊(はるぎく)丸
全長約100メートル、幅13.5メートル、3040トンの貨客船。戦前はファン・ワーウィック号(Van Waerwijck)と呼ばれKPM(Koninklijke Paketvaart Maatschappij)社のロッテルダム〜蘭印の航路に就航。1940年、オランダ海軍に徴用され輸送船として使われたが、16軍の迫る42年3月、ジャカルタのタンジュンプリオ港を閉塞するために自沈させられた。侵略から4ヶ月後に引き上げられ、治菊丸と改名され輸送船として使われた。
44年6月26日、メダンから馬1の捕虜720人をペカンバルに輸送途中、バトゥバラ、タンジュンバレイの沖で英潜水艦トラキュラント(HMS Truculent)の雷撃で沈没。捕虜約200人、船員など日本人30名が犠牲になった。
詳しくは「治菊丸」参照。
<捕虜をスマトラへ運んだ船>
●仏蘭西丸(5828総トン、栃木汽船)
43年8月10日、ジャワから1200人(蘭印人)の捕虜をパレンバンへ運ぶ。14日に到着、捕虜はパンカラン・バレイの飛行場建設へ。
45年1月、精米8000トン、第三船舶輸送司令部と第70碇泊場司令部の要員をシンガポールに向け聖雀(サンジャック)から輸送中、艦載機の攻撃を受け、炎上。船員38名と要員5名が犠牲になった(戦時輸送船団史p 334)。
●菊丸
日本軍が菊丸と呼び、捕虜はこの船を「白船」と呼んだ。戦前はエリザベス号と呼ばれ、マレー半島のプライとペナンの間に就航したこのフェリーで、捕虜やロームシャがこの船でシンガポールからペカンバルに送られた。横断鉄道とは関わりが深い船だ。
近距離連絡用の船がシンガポールからペカンバルへの航路で最初に使われたのは42年12月、横断鉄道建設に向かう最初の部隊、のちに岡村部隊と呼ばれる鉄道省派遣の軍属をスマトラに送るためだった。100人ほどの要員や機材を運ぶのに適当な船がなく、白羽の矢が立った。他に方法がなかったとはいえ、喫水が浅いフェリーでマラッカ海峡を安全に横断できるのか、後から飛行機で向かう予定だった隊長の河西定男らは「祈るような気持ちでその安着の報」を待ったという。
その後、シンガポールとペカンバルを結ぶ定期連絡船として使われ、43年5月、25軍司令部がスマトラに移駐する時もこの船を利用した。
44年4月、スマトラに送られた岩井健は250人も乗れば一杯になる小さな木造船を次のように書く。
旧式の3段膨張式蒸気機関を単調に回転させ、黒い煙を海面に流しながらマラッカ海峡を横切った。船室もないこの船は、上甲板にかろうじて天幕とベンチがあるだけ。
岩井健 p 176
●中華丸(2189総トン、東亜海運)
1920年に進水、山下汽船や大阪商船(ともに現在商船三井)などが所有した。開戦前の41年8月、陸軍に徴発され、主に朝鮮との輸送に使われた。42年6月にいったん軍務を離れるが43年10月に再び徴発され、南洋に送られた。
44年5月、横断鉄道に投入された最初の捕虜をパダンへ運ぶ。1925人(ジャワ部隊20)の捕虜はパダン監獄で一夜を過ごした後、列車に積まれ、パヤクンブに送られ、そこからトラックでペカンバルに送られた(「バタビアからぺカンバルへ」参照)。
中華丸は44年9月、米艦載機の空爆を受け沈没。船員12名戦死(戦時船舶史p 161)。
●めき志こ丸(5785総トン、大阪商船)
大阪商船が日本〜タコマ航路に使用するため建造したたこま丸型貨客船6隻の一つ。1910年竣工。戦前はブラジルへの移民船としても使われた。
44年6月14日、パレンバン(べトゥン?)の馬来俘虜収容所第2分所から207人の捕虜をシンガポールに運ぶ。捕虜はそこから菊丸でペカンバルへ送られた。沿線の第3、4飯場収容所に。
めき志こ丸はマニラから貨物3246トン、隊属貨物1000トン、輝集団補充員と電信第26連隊要員、計4041名を載せてメナドに向かう途中、セレベス島の北で米潜水艦ジャックの攻撃を受け沈没。船員21名、乗船部隊の825名、船砲隊1名が戦死した(戦時船舶史p 246)。
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このページは下記などを参考にした。
駒宮真七郎 『戦時船舶史』
ー『戦時輸送船団史』 出版共同社 1987
Sturma,Michael Hellships down
●ウエッブサイト
捕虜輸送中に連合軍の攻撃で沈没した24隻の地獄船についてはPOW研究会
陸軍徴用船についてはボブ・ハケットのRikugun-Senが詳しい
日本軍の地獄船の全リストはJapanse krijgsgevangenkampen
『還れない海へ ~知られざる「徴用船」の悲劇~』(CBC制作のドキュメンタリー)