鉄9の軌跡(2):鉄道連隊

鉄道第9連隊(鉄9)とは一体どんな力量を持つ部隊だったのか。そもそも何をやるために作られた部隊だったのか。陸軍全体の歴史の中でどんな位置を占めるのか。7番目に作られた鉄道連隊には、何が期待されていたのか。陸軍の鉄道部隊の変遷の中からたどってみる。

日本の鉄道隊が活躍するのはつねに海外の作戦においてであって、日本国内ではなかった。

吉川利治 『普及版 泰緬鉄道 機密文書が明かすアジア太平洋戦争』p4

戦前の日本軍はそれ自体、外国を侵略するための軍事組織だったから驚くには当たらないが、鉄道部隊の任地は吉川の言うように常に国外だった。関東大震災、戦争末期のような非常時に国内で展開することもあり、演習で敷かれた線路や遺構が本拠とした千葉県を中心に今も残っている。たが、鉄道部隊は国外で運用するために作られた戦力であり、しかも、鉄9以前に作られた6つの連隊はどれも対ソ連、対中国戦争のために、大陸で展開するため、だった。部隊の編成、装備、作戦運用の議論も全て北を向いていた。鉄9は南方で欧米宗主国を敵に回す戦争をやるために作られた初めての鉄道部隊だ。

鉄9が投入される南方そのものが政府や軍の視野に入り始めたのは39年末のことだ。対英米(蘭)戦争を始める2年ほど前のことだ。陸海外相の署名する『対外施策方針要綱』(39年12月28日)で「国防経済自給圏確立の見地より特に南方諸地域に対する経済的進出に努むること」と南方への「経済的進出」が初めて掲げられていた。それが「経済的」でも、南に「進出」すれば、英米(蘭)など植民地の宗主国との衝突は避けられない。にもかかわらず、陸軍省、陸海の軍統帥部、作戦部を中心に武力侵攻の機運が高まっていく。ヨーロッパ戦線で宗主国が押され気味だったことで、東南アジアの植民地を経由する援蒋ルートを遮断することができるかもしれない。それによって中国戦線の泥沼状態を解決できるかもしれない。ドイツの電撃侵攻を絶好の機会と捉え、「バスに乗り遅れるな」という機運が強くなっていった。当時陸軍省軍事課長だった岩畔豪雄は40年6月24日、シンガポール奇襲作戦を主張した(杉田一次『情報なき戦争指導-大本営情報参謀の回想』原書房 1987 p 127)。

南方への誘惑が高まっていったとはいえ、軍は南方を知っていたわけではない。40年8月、マレー作戦立案の補佐を命じられた参謀本部の国武輝人(少佐)は次のように回想する。

その時作戦室で示されたのは、マレーの二百万分の一航空図とマレー兵要地誌概要および藁半紙一枚に簡単に図示された作戦構想にすぎなかった。兵要地誌概要も誠にお粗末なもので作戦計画の基礎に使えるようなものではなかった。

陸戦史普及会 『陸戦史集第2 第二次世界大戦史マレー作戦』原書房 1966 p8

国武は参謀本部だったが、陸軍の諸機関はお互い横の連携を欠いたまま、それぞれ独自に40年夏以降、何人もの将校が身分を偽り、潜入し、作戦に使える現地情報の収集にあたった1。軍は情報を収集する一方、作戦軍の編成に取り掛かり、上陸訓練や「熱地」訓練を急いで行った2。英米(蘭)という新しい敵に対する戦争は周到な準備のもとに始められたとは言い難く、情報収集、作戦立案、そして実戦を指揮した辻政信が著作『シンガポール-運命の転機』(東西南北社 1952 p? )に記すように「泥縄式であった」。

南方戦用の鉄道連隊である鉄9の編成は41年9月になってからで、鉄道連隊を補完する特設鉄道隊が具体化するのは41年9月になってからだったが、満鉄の力が及ばない場所での鉄道作戦に国鉄職員を軍隊に取り込む相談は、すでに鉄道省と軍の間で37年から始まっていた3

内燃機関の導入が遅かった戦前の陸軍では鉄路の存在、鉄路の活用がその進軍範囲を決め、侵攻作戦の鍵をにぎった。兵、弾薬や装備の移動、補給を迅速に大量、長距離を移動するためには鉄道が不可欠だった。鉄道の開業から16年の1888年、陸軍の参謀本部は鉄道を次のようにとらえていた。

鉄道は国防の利器なり。即ち兵備に必須の用具なり

参謀本部陸軍部 鉄道論 p 116

規模の大きな移動を含む作戦を始める時、陸軍は鉄道部隊を用意したから「兵備に必須の用具」を担当する鉄道部隊はどこの戦線にも駆り出された4。第一次大戦に参戦した時には、開戦前に臨時鉄道第三大隊を編成した。オーストリア・ハンガリーがセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が勃発するのは1914年7月28日のことだが、陸軍は既に中国のドイツ植民地(租界)に狙いをつけ、その攻略作戦に使う鉄道部隊の準備を進めていた。日本が日英同盟を表向きの理由にドイツに正式に宣戦布告するのは8月23日になってからだ。南方での対英米(蘭)戦でも、鉄9などの鉄道部隊は開戦前に準備されていた。

自動車の発達が遅れていた日本陸軍にとって、鉄道は、大東亜戦争の戦場行動になくてはならないものになっていた。(略)平時の輸送用に敷かれていた現地の鉄道なしには、日本軍の緒戦の迅速な作戦は成り立たなかった。

熊谷直 p 154

鉄道に特化する戦力が軍に作られる1896年以前、敵地で鉄道を奪取し、その運転保守を担ったり、鉄道がない場所で新線を敷く。こうした役割は工兵が担っていた。工兵は4つあった兵科のなかで、戦闘行動をサポートする役割を与えられていた。歩兵や騎兵(のちに戦車兵)、砲兵がちゃんとどんぱちやれるようにお膳立てをする。そのために陣地を築城し、壊れた橋を修復、軌道をしき輸送や通信を可能にする、工兵は縁の下の力持ちだった。工兵は同時に新しい技術、まだ海のものとも山のものともわからない技術を貪欲に取り組む兵科でもあった。電信や気球(のちの航空部隊)、鉄道などの「最新技術」は全て工兵に含まれた5

1904年に作られ、「天に代わりて」として知られ盛んに歌われた「日本陸軍」という歌では工兵が3番で次のように歌われた6

道なき方(かた)に道をつけ
敵の鐵道うち毀(こぼ)ち
雨と散り來る彈丸を
身に浴びながら橋かけて
我が軍渡す工兵の
功勞何にか譬(たと)うべき

大和田建樹作詞 「日本陸軍」 3番(福永恭助 『国の護り』新潮社 1939  p 92より)

戦地で「敵の鐵道うち毀(こぼ)ち」、「道なき方(かた)に道をつけ」るため、工兵の中から鉄道技術に特化した部隊が作られるのは1896年のこと、日清戦争で補給に苦しんだ教訓が背景にあった。戦地で迅速に大量の輸送を成し遂げるために作られた部隊は、鉄道部隊ではあったものの、扱うのは軌間600ミリの軽便鉄道だった。鉄道部隊の設立から1910年ごろまではもっぱら軽便鉄道が相手、任務は輸送だった。

この頃の鉄道部隊は既存の一般鉄道や港に接続する形で軽便路線を敷き、作戦地域が移動すれば、一度敷いた軌条を撤収、資材を次の作戦地域に移し、また軌道を敷いた。輸送にはトロッコのような貨車に兵士や兵備を積み、それを人の力で押した。馬や人の背に頼っていたことから比べれば、輸送力は格段に増した。さらにたくさん、しかも迅速に、ということで特殊な軽便機関車が輸入されるが、この当時の基本は戦地でちゃちゃっとお手軽な軽便、それが鉄道兵の仕事だった7。軽便でスタートを切った鉄道部隊が既存の「普通」鉄道へと重心を移していくのは第一次世界大戦の頃だ。

先述の青島攻略のために作られた臨時鉄道第三大隊は軽便路線を敷き、膠州湾に上陸する部隊を手押軽便で前線に運んだ。これに続いて8月末には山東鉄道の修復と運用にあたるため、臨時鉄道連隊が編成された。軽便と普通鉄道の両方でやってきた鉄道部隊の能力の限界がここで露呈した8。鉄道部隊はこれを契機に「軽普併用」から普通鉄道を主とする方向に転換していく。

臨時鉄道連隊の主たる任務は、山東鉄道の修理・運営であった。にもかかわらず、準備はここでも、かなり杜撰で、そのため作業開始後、数多くの敵畦をきたすことになる。失敗の第1は、軌間を1,067mmと信じたことである。
中国の鉄道事情に関する研究が、いかに不足していたかを示すお粗末な一幕であるが、携行した軌間定規は全て1,067mm用のため、1,435mm軌間では全く用をなさなかった。
鉄まくらぎを使用中であることを知らず、ために犬釘打こみ用のハンマは無用の長物と化したのも、事前調査の不足に起因する出来事といえるだろう。
接収した蒸気機関車の多くが過熱器を装備していたために勝手が判らず、やむなく1両を分解して構造の研究につとめ、ようやく運転法を会得する9

中川浩一 Ⅷ 「第一次世界大戦時の日独戦争と山東鉄道」 『日清・日露戦争と鉄道』

鉄道連隊が普通の鉄道を扱う方向へ転換するとき、その技術を普段からふんだんに蓄え、人員や装備も豊富な鉄道機関、特に国家機関だった鉄道省(国鉄)との関係は必然的に深まっていく。鉄道戦力の展開する大陸では、1906年に設立された半官半民の南満州鉄道(満鉄)との関係が濃密さを増していった。

2022年は日本で最初の鉄道路線が開業して150周年ということで、鉄道の発展をさまざまに振り返る機会だったが、その最初の半分ほどの年月、鉄道の発展が軍事と表裏一体の関係だったことはあまり触れられなかった。鉄道の開通から1945年の敗戦まで、日本の鉄道は通商や鉱工業、観光のために人やモノを輸送する「富国」の手段だっただけではない。それは軍事、「強兵」と密接に絡みついていた。

鉄道部隊と鉄道省(と満鉄)は鉄道という技術を仲介として人脈的にも近く、持ちつ持たれつつ「軍鉄一如」の関係にあった10。鉄道部隊に訓練の場を提供し、運転から運行、土木や橋梁技術を教え、育て上げていったのは鉄道省(と満鉄)だ。陸軍との密接な関係の中、鉄道省(国鉄)や満鉄は軍の鉄道部隊の育成に加担し、鉄道兵の数が足らなければ、自ら積極的に職員を募り、戦地に送り出した。

鉄道隊は国鉄及び満鉄あっての鉄道隊であり、鉄道隊が国軍の作戦に寄与し得た功績の一半は、実に国鉄および満鉄に負うものだ。(略)

国鉄や満鉄が常に、「鉄道隊は我らの縁者であるという」親近感を持って迎え、鉄道隊の教育訓練はもとより、その任務達成に対し没我的援助の手を差し伸べてくれたことは、後世に至るまで特筆大書せらるべきであると信ずる。他面、鉄道部隊は国鉄及び満鉄に対し、師の礼を持ってこれに接し、進んでその技術力を吸収し、己が技を磨いて行ったのである。そこに親和関係が生ぜぬ筈はない。(略)

吉原矩編 『燦たり鉄道兵の記録:極光より南十字星』全鉄会本部1965 p 297

軍の鉄道部隊が「作戦の要求」で急速建築した軌道を満鉄などが引き継ぎ、戦火が鎮静すれば「平時」の植民地経営に活用する。その後「満鉄方式」と呼ばれるシステムはすでに鉄道部隊の最初の本格的な出動となった日露戦争の時に生まれていた。臨時鉄道大隊がt安東(現在の丹東)と奉天(現在の瀋陽)の間に敷いた軽便線は日露戦後の1906年、野戦鉄道提理部を継承して設立した半官半民の南満州鉄道(満鉄)に譲り渡され、改軌され、鴨緑江に架けられた橋で朝鮮鉄道と接続した。

作戦地において鉄道隊が建設した鉄道の権益を、戦後も確保しておいて満鉄に移管するという「満鉄方式」はこの時生まれている。

吉川利治 p5

この後も「満鉄方式」で満州や華北、華中で日本軍の鉄道部隊が急速補修、建築した路線は満鉄や華北交通(39年)、華中鉄道に引き継がれ、日本の占領地経営の道具となった。鉄道は戦術的な兵備から占領支配地を経営する道具になり、点と点を面の支配に押し広げる戦略的な役割を持つようになる。「満鉄方式」のおかげで、鉄道部隊は次の作戦地域への迅速な移転も可能になり、新しい路線の建築にあたっては基礎工事を担当する労務者の手配なども満鉄などに任せることができた11。熊谷の指摘するように「満鉄方式」は日本の侵略に質的な変化をもたらした。

特に日露戦争後の満洲で、(略)満鉄と関東軍が手を組んで活動を始めてからは、国内の鉄道も含めて、鉄道が単なる輸送機関ではなくなった。日本の海外発展の尖兵になった。

熊谷「軍用鉄道発達物語」 p226〜227

熊谷は「海外発展」とするが、実際は「海外侵略」「支配」だ。鉄道部隊は鉄道を中核に「占領開拓」を進め、占領においては満鉄などの機関が担当する「満鉄方式」のおかげで鉄道は戦争遂行の鍵を握る道具になり、植民地支配の「尖兵」となった。鉄道はもはや単なる兵備としてだけでなく大きな戦略的な価値を持つようになった。

1937年、鉄道部隊が誕生してから40年ほど後のこと、機械化され「戦闘鉄道兵化」が進む頃、鉄道連隊は「全軍の勝利の鍵を握る」と歌われる存在になっていた12

広漠千里の戦場に
軌道を敷設修理して
皇軍輸送の大任を
自ら果す鉄道隊
眼にこそ見えね全軍の
勝利の鍵を握るなり

西条八十作詞 「新日本陸軍」 3番

「全軍の勝利の鍵を握る」鉄道連隊をどんどん増設できればいいのだが、連隊一つを作るのに普通師団ひとつを作る金が必要で、多年の懸案となっていた。36年ごろには内地2、満洲2、朝鮮1、北支1、中支1の常設が望まれたものの、満州に鉄3と鉄4が予定より早く作られたくらいで、なかなか進まなかった。

限られた兵力の鉄道部隊にその機能を十分に発揮させるためには、前と後ろの面倒を見てくれる満鉄のような組織の存在が欠かせなくなる。迅速に展開するためには、鉄道兵を補完する組織が必要だった。鉄道部隊は「満鉄方式」の植民地獲得、支配、経営のシステムの中に組み込まれていた。

しかし、南方には満鉄の力が及ばない。どうするか。そこで国鉄職員などからなる軍属部隊、特設鉄道隊が誕生した。それまでにも中国戦線に鉄道職員の部隊が送られてきたが、鉄道職員を軍隊化するのは初めての試みだった。南方戦用にそれぞれ3千人の軍属からなる二つの特設鉄道隊が編成され、開戦から鉄9と鉄5に交錯するように、マレー戦線、ビルマ戦線、泰緬鉄道、クラ地峡で鉄道戦を戦った。軍隊化された国鉄職員、「国鉄の戦争」については稿を改める。

鉄道を敷設して沿線の権益を獲得し、日本の勢力を扶植して拡大し、傀儡国家を樹立してきたのが満洲国であったとするなら、泰緬鉄道を建設し、タイやビルマを南の満洲国に仕立てていこうというのが、日本の陸軍中枢の暗黙の思想ではなかったか、と思われるからである。

吉川 p15

吉川は満鉄方式による南方侵攻の先に「南の満州国」がイメージだけだったにしても描かれていたのではないかとする。「満鉄方式」は鉄道の占領開拓から、その勢力拡大に寄与し、「満州国」という傀儡につながった。南方でも鉄道線を繋げ、周辺権益を獲得し、やがては一括経営の下で、傀儡国家の樹立を夢見ていたとしても不思議ではない。

鉄道連隊が普通鉄道を主として扱うようになり、編成が見直され、装備が既存の鉄道を対象に、機械化が進む一方で、運用も見直されていった。戦場における鉄道兵の場所、だ。

鉄道の修理保守は勿論、新設までもやらねばならぬ。然しそれでも通念としての後方部隊の域を脱せず、戦闘を本務とする兵科とは訓然たる一線が引かれていた

吉原 『燦たり鉄道兵の記録: 極光より南十字星』 全鉄会本部 1965 p1

「普主軽従時代」の到来と共に、それまであった「訓然たる一線」はどんどん薄れ、鉄道部隊はもはや後方部隊ではなく「戦闘鉄道兵化」(『燦たり鉄道兵』 p 158)して前線に進み出た。この頃の鉄道兵は弾の飛んでこない後方で輸送を担当するだけでなく、装甲軌道車、装甲列車を繰り出し、自ら前線に斬り込むことを求められた。敵に鉄道施設の破壊する余裕を与えないというだけでなく、無知な友軍による破壊を防ぐ意味もあった(*13)。

普通鉄道に応対し「戦闘鉄道兵化」を図る鉄道連隊を装備面で象徴するのは鉄道牽引車と貨車の開発だった。牽引車は軌道上と軌道外の両方を走ることができる車両で、現在は「軌陸車」とよばれる。既存の鉄道をめぐる戦闘の増加、普通鉄道の保線や修理、作業の増加に対応するために開発されたもので普通鉄道時代の鉄道連隊にはなくてはならない装備だった。最初の鉄牽は1931年に導入された91式広軌牽引車だ。

満州事変には91式牽引車が4両、鉄道装甲車の運転要員とともに送られ、戦闘や警備に使われた。

吉原 P 158

ガソリンエンジンを使うスミダ6輪自動貨車(トラック)をベースに開発した牽引車は蒸気機関車のように給水や石炭の補給が要らず、軌道の上では貨車を牽引して満州の広軌を走ることができ、応急連絡や警備にも重宝された。それをベースに装甲軌道車や鉄道工作車なども作られ、鉄道部隊の機械化は一気に進んだ14。将来の対ソ戦では高度に機械化した鉄道兵が、普通鉄道の応急修理や応急運転を速やかに行う。そんな算段だった。

シベリア事変後満州事変に至る間は鉄道隊発達進歩の最も著しい期間で、普主軽従主義の相貌判然とし、これに伴って兵器装備が躍進的進歩を見るに至った。(略)

中でも特筆すべきは91式広軌牽引車及び同貨車であった。

吉原 『燦たり鉄道兵の記録: 極光より南十字星』 p 83

世界的にも画期的な牽引車を開発したのは、その後38年4月編成の鉄5初代連隊長に就く青村常次郎。終戦時にタイの鉄道部隊長だった深山忠がその後の改良を行った15。91式の後、98式(ガソリン・エンジン)100式(ディーゼル)鉄牽が作られた。また、牽引車をベースに鉄道工作車やクレーン搭載の力作車など移動式の作業器材が開発され、鉄道突進用には戦車まがいの装甲軌道車も生産された16。鉄道連隊の各大隊には対英米(蘭)戦開始当時4〜5両の鉄道牽引車が配備されていた。

各大隊に4〜5両の鉄道牽引車という軌道と道路を兼用できる装置を備えたディーゼル気動車が配備され、材料を積む台車とともに鉄道上の輸送力として活用されていました。

二松『泰緬鉄道の話』p77

二松は鉄牽の車種を明記していないが、「ディーゼル気動車」ということから多分、100式だろう。その前の98式はガソリンエンジンだった。

横断鉄道で使役されたオランダ人捕虜
CB Snijdersによる鉄牽のスケッチ。
アムステルダムの戦争資料館(Oorlogs Bronnen)所蔵。

軽便用の装備、鉄道機関からかき集めた器材など、普通鉄道用には極めて貧弱、粗悪な装備しか持たなかった鉄道連隊だが、鉄9のできるころにはかなり機械化が進んでいた。迅速に移動ができる装備が開発され、器材が整う中で、鉄道兵には熟練工に匹敵する技術が求められた。

鉄牽は鉄道戦力の機械化を象徴したが、装備のほとんどは北方戦のために開発されていた。それを南方でも使えるようにした。「鉄道関係器材概説」(第三陸軍技術研究所、43年5月20日付け)を見ると、「軌道爆雷」「軌道脱釘探知機」「鉄道空気圧縮車」などソ連の超広軌(1524ミリ)や中国や満州の広軌(1435ミリ)でしか使えない器具も含まれている。器材は明らかに北方用に開発されたことがわかる。北から南へ戦場の転換に伴い、そもそも北方で使うつもりで開発した牽引車も急いで南方汎用のメートル軌で使えるようにした。

鉄牽は確かに南方の線路でも使えるようになってはいたが、100式の動力は強制空冷6気筒ディーゼルエンジン(いすゞDA60型)で、それまでの98式鉄牽の水冷ガソリンから変わっていた。空冷エンジンにしたのは寒冷地で冷却水が凍結するのを避けるためだった、鉄9で鉄牽の運転教官を務めた岩井健は変更の理由をそう書く(岩井 p 14)。

北方用の空冷エンジンは南方ではボンネットやルーバーを全開にしても冷却が効かなかったという。エンジンのオーバーヒートは日常だった。横断鉄道で使役されたオランダ人捕虜、CB Snijders17の描く鉄牽のボンネットは閉まっているが、そのほかの写真に写る鉄牽はほとんど全開だ。

大陸仕様で設計された鉄牽が音を挙げたのはエンジンだけではない。大陸用、シベリアや満州の戦場、広軌を想定して開発された鉄牽はギクシャク、でこぼこした狭軌路線で長い間使うようにはできていなかった。過酷な条件で無理に使い続ければ、前車軸に斜荷重がかかり、テーパー・ローラーのベアリングが砕けた。

メクロン河畔に保存される「下駄履き」鉄牽537号。
岩井健 『C56南方戦場を行く』巻頭写真

泰緬鉄道の現場では前車軸の故障が続出し、鉄道牽引車の1/3が使えないこともあった。しかも交換部品がなかなか手に入らない。部品を求めて、重爆を日本に飛ばすこともあった。現場では手に入らない部品を補う苦肉の策として、故障した牽引車の前車軸を97式貨車のボギー台車に履き替え、改造した。現場では「下駄履き」鉄牽と呼んだ。

CB Snijdersの描いた鉄牽は6輪トラックがベースのはずだが、後部4輪、前部4輪、8輪のように見える。タイのメクロンに保存される鉄牽537号(鉄道第5連隊で使用された37号)も同じように8輪だ。これらは「下駄履き」の8輪鉄牽だ。

44年、鉄9第4大隊がスマトラに到着した当時、どんな装備を持ってきたのか、その詳細はわからない。鉄牽は4、5台使っていたと思われるが、下駄履きだった。マレー作戦、ビルマ、泰緬、7中はクラ地峡を経て、装備はかなり破損していただろうことは想像できる。スマトラの環境は泰緬に比べても過酷だったようで、鉄牽だけでなく97式貨車(軽列車貨車)も壊れた。オンビリン炭鉱に付属する工場でその修理にあたった岩井健によれば、泰緬では一度もなかった車軸の折損がスマトラでは頻繁に起こっていた。

私は、建設作業中ひんびんと折損する軽列車貨車の車軸の電気溶接と、大型旋盤加工を、この工場に委託していた。泰緬鉄道建設中には、97式貨車主軸の折損に一度もでくわしたことがなかったが、この中部スマトラ横断鉄道建設では折損が多く、修理は全てわれわれの工場に持ちこまれた。オンビリンの工場では、折れた軸に隅肉をとって突き合わせ電気溶接し、さらに4枚の補強リブを溶接した。

岩井 p197

鉄牽は鉄道部隊の近代化、機械化を象徴したが、予想を上回る過酷な状況で、部品の供給もままならず下駄を履いた。下駄履き100式鉄牽はろくな準備もせずに取り掛かり、潰えていった日本の南方侵略そのものを象徴するようだ。

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  1. 大本営作戦部からはマレーに谷川一男(中佐)や国武輝人(大尉)を滑り込ませ、情報部も40年9月以降、各方面に情報関係者を派遣して兵要地誌資料などの収集にあたった。タイ、マレーには八原博道(中佐)。スマトラには門松正一(少佐)、北スマトラに西村兵一(少佐)、パレンバンには小松原虎雄(少佐)が派遣された(杉田一次 『情報なき戦争指導-大本営情報参謀の回想』p146〜147) ↩︎
  2. マレー侵攻の先陣を切り鉄9とともにシンゴラに上陸する第5師団は近衛師団とともに、機械化の進んだ師団だった。また、上陸にも長けた部隊として知られた。この第5師団(と船舶輸送司令官)に上陸作戦が訓令されたのは40年10月12日。その二ヶ月ほど後、近衛師団、第18、第48の3師団に「熱地」作戦に備えろとの訓令が下された(12月6日)。
    12月末日本の南方侵略の拠点となる台湾の軍司令部内に「研究部(第82部隊)」が新設され、南方作戦に必要な研究調査が始まる。主要な研究員は辻、朝枝、江崎瞳生(中佐)、尾花義正(少佐)など。
    年が明けて41年1月には志布志湾付近で参謀演習旅行が実施され、当時参謀本部部長、のちには25軍参謀長として山下の右腕を務める鈴木宗作が統裁した(41年1月20日〜2月2日)。翌月、第5師団は陸海軍協同で上海から佐世保湾へ上陸演習を実施(3月17日〜4月4日)。辻らの指導のもと、6月には海南島で上陸訓練、熱帯における機動訓練が行われた。
    占領後の軍政についての研究は参謀本部第一部に研究班が作られ、41年2月から始まった。「蘭印を生命線」とする具体的な作戦や占領統治の研究に基づき「南方占領地行政実施要領」(大本営政府連絡会議決定)が決まるのは41年11月20日。まさに開戦前夜のことだった。 ↩︎
  3. 鉄道連隊を補完する特設鉄道隊の構想は37年3月、鉄道省に陸軍との連絡機関として調査部ができた時に遡る(初代調査部長は森本義夫、課長は下山定則、三木正など)。
    第一次世界大戦後、陸軍は将来、シベリアにおける対ソ戦で鉄道連隊を倍増し、その後方を満鉄が補えば十分だろうと考えていた。しかし中国戦線の膠着、さらに対米英(蘭)との戦争を含む戦局の拡大を考えるとそれでは心許ないと見なされ、鉄道兵力の増強が望まれた。しかし、それを賄う軍事費が足りない。そこで白羽が立ったのは「常時多数の鉄道従業員と資材を保有する」鉄道省だった。鉄道連隊を補完する組織として鉄道職員による軍属部隊を作ることは陸軍の方から鉄道大臣の中島知久平に持ちかけられ、一朝有事の際には鉄道省の職員を主体とする軍属部隊を特設することが閣議決定した。調査部は陸軍との連絡機関としてこの時に作られた。 ↩︎
  4. 「明治建軍以来、ありとあらゆる大陸の事変・戦役に必ず出動し、出動度数の多いことは全陸軍の第1位であった。(青木慶一「機関士の思い出(11)」『橋梁』1973年12月号 p 74)」 ↩︎
  5. 市ヶ谷(のちに中野に移動)に作られた鉄道大隊 (2個中隊・電信1中隊・材料廠)は1908年になると気球隊、電信隊が分離し、鉄道部隊は3個大隊を持つ連隊に拡大した。気球隊、電信隊、鉄道連隊を統括するために交通兵旅団司令部が千葉に設置される。1915年に旅団は兵団に格上げされ、気球隊は中野から所沢に移転、それが航空大隊となる。陸軍航空部隊は工兵から生まれた鉄道隊(の中の電信隊気球部)が母体だった。中野の電信隊の跡地にはやがて中野学校が作られる(1939年)。
    また、全国に基準点を作り、三角点を求め、精密な5万分の1地図を作成したのは工兵の陸地測量部(1888年設立)だ(『工兵物語』 p47)。 ↩︎
  6. 作詞者の大和田建樹は「汽笛一声新橋を〜」で始まる鉄道唱歌(1900年)の作詞でも知られる。 ↩︎
  7. 軽便時代に野戦機関車を導入したのは二代目大隊長の井上仁郎(少佐)だ。井上は日清戦争後にドイツに派遣され交通学を学ぶ一方、プロシア鉄道第1連隊で軽便を使う野戦鉄道を体験した。自らの体験に基づき、井上は1901年、C型タンク機関車を二つ前後にくっつけたA/B型蒸気機関車を5両(10台)輸入して試験をやった。日露戦争に使うつもりで1905年から
    2年間に、組み立て式のレールと共に376輛(合計188組)が輸入された。設計はドイツのクラウス社、ハノーバーやヘンシェルなどの8社が製造した。日露戦争が予想より早く講和が実現したので、機関車が実際に戦場で使われることはなかった。
    この双合機関車は勾配のある場所で難があったため、その代わりとしてドイツ陸軍が野戦軽便鉄道用に開発したオーレンシュタイン・ウント・コッペル社のE形を輸入した。1921年に25両、25年に6両、計31両が輸入された。
    これらの野戦機関車はどこにでも持っていけたわけではなく、1914年7月に編成された臨時鉄道第三大隊が山東半島南西岸のビスマルク要塞の前まで敷いた軽便鉄道では機関車は使われず、トロッコのような貨車を人力で押した。その後も「手押軽便」部隊は人力の軌道を作る部隊として存在し、25軍のマレー侵攻にも配属されていた。マレー戦線で「手押軽便」部隊はどんな活動をしたのか、わからない。 ↩︎
  8. 「とうじの鉄道連隊は実践を経たとはいっても軽便鉄道中心であり、一般の鉄道の運用には慣れていなかった。(熊谷 p142)」 ↩︎
  9. 国鉄も8800型、8850型 、8900型など過熱式蒸機機関車を明治末に輸入していたが、それらが走るのは主要幹線のみで、鉄道兵が操車訓練をした総武線では飽和蒸気を使用した機関車が使われていた。 ↩︎
  10. 「平時産業の戦士は一朝有事の際は実質的には戦闘員と同じ精神を以て、その全能力を発揮して戦時態勢に即応し、尚戦時における国民の生活必需品の輸送等にも満遺憾なからしむべく生産配給の円満なる調整に努力している次第である。輝かしい勝利のかげに実に軍鉄一如の緊密なる協力のある事を知らねばならぬ。(鉄道省 「戦争と鉄道」『週報』(59)情報局 37年12月)」 ↩︎
  11. その一方で、河村弁治によれば、満州事変前には満州に関する限り満鉄従業員で十分だ、鉄道部隊は不要とする論もあった。
    「蓋し満州事変勃発前後は鉄道隊不要論が中々盛んで、特に満洲では満鐵従事員を以てする軍鐵一体の活動にて十分目的を達し得べしとの説が大勢を制した結果と思惟せられる。 しかしながら事變勃発後の状況はこの迷夢を覆し、遂に数ヵ月後に千葉鐵道第一連隊を満洲へ派遣し、事件の擴大に従ひ鐵道の占領、迅速建設等に任ぜしむることとなり、昭和九年には鐵道第三連隊を満州に編成派遣し、更に 昭和十一年には第四連隊を新たに設けることとなった・・・(児嶋 p103)
    事変以後は鉄3がハルピン(34年)、盧溝橋事件(77事変)の後には鉄6(37年10月)、38年(36年?)には満州東部の交通の要所、関東軍が基地を置いた牡丹江に鉄4が派遣され「事件の擴大に従ひ鐵道の占領、迅速建設等」にあたった。
    ↩︎
  12. 「天に代わりて」として知られた1904年版の「日本陸軍」のアップデート版として作られたのが「新日本陸軍」だ。オリジナルバージョン以降に生まれた航空兵や高射砲兵、軍犬や軍鳩などとともに鉄道部隊も歌われた(3番)。作詞の西条八十は「蘇州夜曲」「赤い鳥」「東京行進曲」「王将」などのヒットで知られるが「同期のさくら」をはじめ軍歌も数多く作詞した。 ↩︎
  13. 「鉄道沿線に歩兵や砲兵やその他の部隊が進出すると、かけがえのない鉄道施設を前後の思慮もなく破壊することが多く、敵が退却に際して焼却・破壊する場合も多い。給水塔や信号所などを15センチ榴弾砲の試射目標にして吹っ飛ばされては、列車が動かなくなってしまう。
    そこで、敵に接敵し、鉄道主軸で攻撃前進する状況の時は、鉄道をよく呑み込んでいる鉄道兵が歩兵よりも前へ出て、ぐんぐん肉薄して、いわゆる敵に「膚接(ふせつ)」攻撃しながら、鉄道を破壊する余裕を敵に与えないで保全しつつ取り込み、息もつかせずに追撃するのである。(略)
    鉄道兵は38式歩兵銃の銃身が短い小粋(こいき)な銃を持っていて、これは銃剣を越倒式にしてある騎兵銃のことではない。だから歩兵とほとんど違わない野戦の攻撃前進が可能であるし、そういうための教育をうんと仕込んであった(青木慶一「機関士の思い出(11)」『橋梁』1973年12月号 p 74〜75)。
    ↩︎
  14. この時期に開発された普通鉄道用の器材には発動機付きポンプ、大小石油打杭機、分解式重軽橋桁、同架設機軌道破壊具、車両分解結合具、脱線器、復線器などがある。 ↩︎
  15. 井上作巳『旧陸軍技術本部における工兵器材研究審査の回顧』1957 p87 ↩︎
  16. このほか91式をもとに軌条敷設車も作られた。それまで「一日一里(約1.6キロ)」が常識とされた鉄道の敷設速度を1日8キロに伸ばそうとして開発されたもので、33年10月、千葉と下志津の間で行った鉄1の敷設演習では12時間で8キロを達成した。 ↩︎
  17. CB SnijdersはCarolus Bernardus Snijders のことだろう。収容所で作成された銘々票では名前が「スナイラルス」と書かれている。これを見ると、「スナイラルス」はジャワで投降、44年5月、馬1に移されるまでそこに収容されていた。瓜(ジャワ)→馬1(ペカンバル)に移管し、戦後、そこで解放された。「スナイラルス」は中華丸でバタビアからパダンに運ばれ、横断鉄道に投入された最初の連合国人捕虜の一団、いわゆるジャワ部隊21の一員だった(「バタビアからペカンバルへ」参照)。 ↩︎

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