機関車

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スマトラ横断鉄道ではどんな機関車が使われたのか。鉄道の全容と同じく、わかっていることもあるが、実際どんな機関車が何台、どこから持ち込まれたのか、それらは戦後どうなったのか、わかっていないことも多い。実際に竣工される頃の事情を考えると、戦局はすでに傾き、資材は払底し、あったとしても輸送はままならず、とにかく手に入るものでなんとかやりくりするしかなかった。軌条(レール)は、ジャワ島中部や北スマトラの鉄道から引きはがして運んだものが使われた(元捕虜のオランダ人、ノイマンはマレー半島からも線路や機関車が持ち込まれたと書いているが、ほかの史料では裏付けられていない)。

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枕木は現場付近で木を切り出し、加工した。この枕木製作に使ったと思われるコンクリート製のピットがいくつか、今でもかつての沿線沿に残る。リパ・カインに展示される機関車の残骸の近くにもひとつある。

機関車は主としてジャワや北スマトラから徴収され、分解され、連合国の攻撃をかいくぐり、船でペカンバルの工場に搬入され、そこで組み立てられた。

軌間が1000mmだった場合、組み立てる際に機関車の改軌もペカンバルの工場で同時に行われたと思われるが、ジョグジャカルタのバライヤサ(Balai Yasa)工場などで分解する前に改軌した可能性もある。バライヤサからはC52型機関車がマレー半島やタイに送られたが、そのうちの1台(C5210)は1000mmに改軌された状態で、戦後見つかった(Jan de BruinHet Indische Spoor in oorlogstijdp194)。

下記は材料廠の工場で実際に作業に携わった岩崎健児大尉(筆名は岩井健)の証言。

昭和20年に入るとパカンバル港の桟橋には、北スマトラのメダンから送り出された、きゃしゃな軽便鉄道用のレールが連日のように陸揚げされた。(略)本線用の機関車が、分解された姿でジャワから続々とパカンバル港に陸揚げされ、それに輪をかけるように、1メートル軌間に改軌された日本の無蓋貨車が、パカンバル港に到着した。それらは第8中隊の手によってわれわれの工場に搬入された。機関車の組み立ては、ジャワ島中南部のジョクジャカルタ鉄道工場から派遣されてきた現地人技能者20名ほどと、彼らを指導する鉄道省浜松鉄道工場から徴用された秋本軍属ほか2名が行った。(江澤p.110)

本線では少なくとも20台以上の機関車が持ち込まれたと言われている。下記は判明しているもの。



C54型


C54

ここに鉄道があったことを伝える数少ない遺跡のひとつが赤道直下、リパカインの町から「日本の機関車通り」を入ったところに保存される錆び付いた機関車の残骸だ。これは、たぶん、ジャワの私鉄、Semarang-Cheribon Stoomtram Maatschappij (SCS)から持ち込まれ本線で使われた4台のC54型機関車の1台。ドイツのハルトマン社、イギリスのベイヤー・ピーコック社で計19両が製造され、1922年にジャワに輸入された。平地での高速走行に適した機関車は、軟弱な基盤で曲がりくねった路線には不向きで、この機関車に言及するインドネシア国鉄(KAI)のホームページは、日本人は一体何を考えていたんだろうと首をひねる。たぶん、日本軍は、あれこれ選べるような状況にはなく、手に入る機関車は何でも使ったのだろう。

C33型


c33 at Emma

植民政府の鉄道局Staats Spoorwegen Sumatra (SSS)が西スマトラ線区での使う目的で1891年から1904年にかけ、ドイツのエスリンゲン社に発注、パダンやソロに配備された23台のうち3台が本線で使われた。

この形の機関車(C3322)がペカンバルの「労働者英雄公園」に展示されているが、これは本線で実際に使われなかった。1970年代にパダンから展示目的で移動したもの。パダンのハル通り駅の駅前にも同型の機関車(C3325)が展示されている。

これらは戦後、1978年まで現役で使用された。ジャカルタのタマンミニにも(CC3318)が静態展示されている。



C30型

1929年から30年にかけドイツのボルジッヒ、ホーエンツォレルン、ハノマーク社、オランダのウェークスポール社で製造された機関車で、西スマトラや南スマトラでも戦前から使われていた。

インドネシアの鉄道史に詳しいヤン・デ・ブルーイン(Jan de Bruin)の『Het Indische Spoor in oorlogstijd』によれば、本線ではこの型の機関車が少なくとも3台ジャワから持ち込まれ使われた。シロケ村に静態保存されている錆び付いた機関車はそのうちの1 台だと言われている(C33だとする記述もある)。

日本の占領中、やはりジャワから同型の機関車がカンボジアに4台、「インドシナ」に7台送られたという記録がある。
同型の機関車は1970年代まで現役で使用され、そのうちの1台、C3065は80年代まで使われ、現在はジャカルタのタマンミニに展示されている。南スマトラのルブックリンガウにもう1台(C3082)静態保存されている。

2B(またはB51型)

このほか、やはりジャワから持ち込まれた1902年、ドイツのハルトマン社(またはハノーマーク社)製の機関車も使われた。
DSM

Deli66

同じスマトラ島の北部、メダン近辺の私鉄、Deli Spoorweg Maatschappij(DSM)からハノマーク社製の機関車が少なくとも2台持ち込まれ本線で使用された。これらの機関車は単にDSM60、DSM66と表記された。

戦争捕虜で鉄道建設に使役されたノイマンの著書の表紙にはこの機関車の写真が使われ、「ハノマーク製S-181」と表記されている(が、これは1B1の記載間違い)。ノイマンによると(“De Pakanbaroe Spoorweg” p33, 英語版The Sumatra railway p27)DSM60、DSM66は戦後、「大掛かりな修理」を施され、ふたたびDSMで使用された。「大掛かりな修理」とは具体的にどんな作業だったのか、なぜそれが必要だったのか、ノイマンは説明しないが、もしかすると1000mmから再び1067mmに改軌する作業も含まれていたのかもしれない。

DSM 30:Neumann

DSMからはDSM7(ホーエンツォレルン社製)、クラウス社製の小型機関車DSM30(炭坑支線で使われた)、そしてDSM56も持ち込まれた。DSM 56はノイマンが著書の中でB-1型と呼ぶ機関車だと思われるが、ノイマンはそれが3台、メダン近辺から持ち込まれ、本線で使われたと書いている(”De Pakanbaroe Spoorweg” p33, 英語版The Sumatra railway p27)。

DSMの蒸気機関車リスト
(英語)

 

上記は使用されたことがわかっている機関車だが、このほかにも持ち込まれた機関車があったと思われるが、全貌はまだ解明されていない。

Lok “hilang” pada penjajahan Jepang dan setelahnya日本軍に持ち去られた機関車(インドネシア語)

江澤によれば、佐官待遇の軍属として鉄道工事に加わった国鉄技師の河合秀夫は、戦後出版した著作『戦火の裏側で』の中で、ジャワから送られてきた機関車の中に「B六」を見つけ「…嬉しさの余り、B六を私自身で運転して既成線路の部分を走らせたりしたものだ」と述懐している(p.110)。河合は東京大学工学部を卒業後鉄道省に入り、復員後は国鉄に復帰、退職時には常務理事まで勤め上げた人物である。記憶違いをする可能性や機関車の型を間違える可能性はかなり低いのではないかと思われるが、「B六」がジャワやスマトラに運ばれたという記録はこれまでのところ見つかっていない。河合の運転した機関車は果たして「B六」だったのかどうか。

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