逃亡・死亡・患者:陣中日誌(4)

6月13日付け「労務者現況報告」

陣中日誌にはロームシャに関する記述が多い。ロームシャの力無くして建設はできないので、彼らに関する記述が多くなるのは当然だ。ひと月分の日誌には「労務者管理表」が三つ付帯している。6月13日と26日付けのものは同じ書式で、そこに書かれる数字から二つが連続していたことがわかる。このふたつと6月25日付けの「管理表」がどのような関係になるのか、江澤が言うように、よくわからない(p 159)。なぜ、25日と26日、別々の異なる表が作成され、しかも数字が異なっているのか。これら三つと、毎日の作業記録、そして月末にまとめられた「衛生状況」など陣中日誌に含まれるロームシャに関する様々な記述から、当時の状況を推測する。

13日付けを見るとロームシャを「継承」した数日後の5月26日、総数が3732人と400人以上も減っている。このほとんどはその前日、25日付けで分界点のリパカインの向こうで作業をする鉄9に引き渡された。中隊の使役するロームシャの数はそれからひと月後、6月26日の数字を見ると、3328人(スマトラ出身者1885人、ジャワ出身者1443人)となる。減少した400人ほどのほとんどは現場から逃亡、帰郷し、作業から離脱したものだ。業者から中隊への引き継ぎ、小隊間の「移譲」「継承」のどさくさに紛れ、逃亡したいものはこれ幸いに逃亡したのだろう(*1)。

そしてこのひと月の間に231人の死亡が記録されている。逃亡や死亡により総数が減る一方、作業に出られない「患者」がいた。作業日報には毎日使役したロームシャの数が記入されている。最高は6月8日の2613人で最低が2272人(29日)、月平均は2452人。総数との差、1000人くらいは「患者」で、就業率は7割から7割5分程度だ。

逃亡死亡数は相当数に上り重大なる問題なり。給与の粗悪と衛生の不備によるもの。

6月13日

まず、食事(給与)の改善策として、主食の米の不足を補うため、雑穀が使われ、その調理法指導員が配属になり、2週間かけて各小隊を回った。

労務者管理向上対策を隠し雑穀の調理法に依る思考の増加せしめもって給与向上の一策たらしめんと調理指導員の配属を申請中なりしが、本日配属せらる。これにより中隊の労務管理は向上するものと思考す。

6月1日

この効果なのか、労務者の給与は「若干向上」したと書かれている(6月14日)。しかしトラック不足による野菜、副食の不足は深刻、どうにもならないようで、それを補うため同じ日に「野生菜」、つまり野草の活用が促された(*2)。

食事はともかく健康状態はなかなか改善しなかった。ロームシャの死因には触れられていないが、「患者の70%がマラリア、そして熱帯潰瘍、呼吸器患者、そして赤痢がこれに次ぐ」と書かれている(25日付け)ことから、それらが原因と推測される。6月末、1000人近い「患者」の700人ほどがマラリア「患者」だったこともわかる(労務者総数の20%以上)(*3)。

6月26日付け

衛生状態を改善するため、中隊では病気の患者をなるべくまとめ、収容所を作る腹づもりだったようだ。21日にはロガスとムアラレンブの中間、サンボンに患者収容所がひとつ開設され、そこに300人近い「患者」がいた。技師と衛生兵が3人、現地人医師2人が配属されたものの、「薬剤の不足」で効果はあまり思うように上がらなかったと書かれている。

こうした収容所を中隊ではムアラレンブ、コタバル、スンガイパネー、タンジョンパウ、シバタムラの5カ所に作ろうとしており、サンボンとコタバルには病院も作る予定だった(「衛生状況及び衛生勤務概況表」)。患者の分布を見ると、これらの地区にはすでにかなりの数の患者が「アタップ苦力小屋」や「現地人住宅」「敵産」などに集めらていたのがわかる。集めてはいたが、衛生兵が6名点在するだけで、どれだけのことができたのかわからない。このうち、いくつが正式な「収容施設」に格上げされたのも不明だ。どちらにしても薬も設備もなく、この後、ロームシャの健康が大きく改善したとは思えない。

衛生関係で、注目されるのは、6月前半に行われた小隊間のロームシャの「継承」「移譲」だ。第7区から6区に457人(スマトラ188人、ジャワ269人)、9区から8区に390人(215人、175人)が移動した。この移動は、各区の作業進捗状況から考えると、腑に落ちないところがある。6区と8区では工事が順調に進んおり、逆に7と9区は遅れがちで、猫の手も借りたかったはずだ。通常ならば、工事が遅れ、人手が必要な工区に労働力を回すはずだが、ここでは、作業が進んでいる工区に移動した。5月に業者から「継承」した時、ロームシャの数は一番少なかったのが8区を担当した渡邊小隊で833人、一番多かったのが7区の間島小隊で1215人だった。それがひと月の間に他の小隊のロームシャの数は軒並み減ったのに、ほとんど作業が終わっていた6区だけ、数が増えている。

推測に過ぎないが、移動したロームシャの大半が作業に耐えられない「患者」だったのではないか。特に6区は「患者」の数が突出しており、「患者」をここに集めていた痕跡が見える。「患者」は21日、サンボンに「患者収容所」ができる以前から、ここにを集められていた。それが7区からの移動の内容かもしれない。6区はロームシャ総数そのものが多く、そして患者の数も突出している。また、6区の患者には「150名の特別患者が含まれる」(25日付け)と書かれている。「特別」が何を意味するのかわからないが、ロームシャ総数の5%近くが「特別」だった。当時、別な文書には「現地療養」では回復せず、入院治療、後方への転送が必要とされる重症の患者、瀕死の者を「特殊」患者と呼んでいたので「特別」も同じ意味で使われた可能性がある(*4)。

また中隊から「入院」(という形での中隊の勘定からの離脱)した者がこの月18人記録されているが、全員第6工区からだけで、ほかの小隊からの「入院者」はいない。「入院」と対で、ロームシャの頭数が増えたことを記入する「退院」という項目がある。6月後半、一人のスマトラ人が「退院」し、「増」の欄に記入されている(26日付け)がこれも6区の石井小隊だ。「入退院」による頭数の増減があるのはこの工区だけだ。作業がほぼ終わったこの工区で、ロームシャを特別酷使する理由はない。6区に「患者」を集め、「現地療養」させる。その中には「特別」患者もいた。その中で、瀕死なものを「入院」させた。6区は中隊の中で大隊本部のあるムアロ、苦力病院のあるタロックに最も近い(*5)。

他の工区にも「特別」患者がいたはずだが、入退院は一人もいない。確証はないが、ほかの小隊からの「特別患者」は6区に送られ、そこにまとめられたのではないか。直接、入院させようにもトラックの都合がつかず輸送できなかったことも考えられる。それが「入退院」による増減がこの小隊だけという理由かと思われる。入退院させることが物理的にできたのは6区の石井小隊だけだったのかもしれない。

「衛生状況」に見る第6区の様子。

その一方、マラリアが特にこの地区で酷かった可能性もある。中隊の担当する全域で蔓延していた可能性もあるが、多分、サンボン、ムアラレンブの間わずか5キロほどの地域に集中していたようだ。「衛生状況」には患者の発生した地点と数をマラリア、赤痢、その他に分けて記入する欄がある。数字は兵隊と労務者別に記入するようになっているが、実際には日本兵の欄だけに記入がある。

この月、中隊の兵隊14人がマラリアにかかり入院しているが、そのうち13人はサンボン、ムアラレンブ地区で発病している。ここには中隊の本部、石井小隊の本部、間島小隊の本部があり、95人の兵隊がいた。罹患率は約13%。同じ頃、同じエリアには1377人のロームシャがおり、そのうち350人が「患者」だった。日本兵の罹患率を当てはめればこのうち180人がマラリア患者と想像できるが、ロームシャの罹患率はもっと高かったので、患者のほとんどがマラリアだった可能性もある。

病気になったロームシャはマラリアが蔓延し、十分な設備もないロガス地区(サンボン、ムアラレンブを含む10キロほどの地域)に集められた。薬も設備もなく、そこへ行っても回復することはない。送られたらもう二度と生きては戻れない。「ロガスが恐ろしい」という現地の記憶の一端はこの辺りにも原因があるのかもしれない。

陣中日誌の最後、月末を締め括り、死亡や逃亡は「相当減少」したが、患者は「若干増加」と書かれている。それは衛生機関が設置されるまでの「一時的現象」であり、食料事情とともに追々改善されるだろうと呑気な見通しだ。しかし、1日あたりの平均を見る限り、死亡者、逃亡者の数は全く減ってはいない。患者の数は高止まりであり、これらが過度的なものとみなす理由がわからない。別なところでは患者収容所が開設されたが「薬剤の不足」で満足な効果は上がっていないと書かれている。

6月25日付け

6月にロームシャが最も多く使われたのは8日のことで2613人。最も少ない日は2272人(29日)だった。月平均は1日あたり2452人。6月の状況が続けば、次の月にも300人ほどが逃亡し、100人以上の死者が出て、ロームシャの頭数はさらに減っただろう。中隊長の記憶に残る「3000人」というのは自分たちが現場を去る7月末のものだったのかもしれない。衛生状態が改善しなければ、その頃、働きに出られる奴隷の数は2000人を割ったかもしれない。現場では追加が欲しかったに違いない(*6)。

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*1)逃亡者の数を小隊ごとにまとめると次のようになる。


5月26日〜6月13日(18日間)〜26日(13日間)「継承日」〜6月25日
6石井小隊(スマトラ出身者39人+ジャワ9人)(26+19)(65+28)
7間島小隊(40+1)27(75+2)
8渡邊小隊( 57+2)14(96+2)
9柴田小隊(41+1)46(115+1)
中隊合計190(177+13)132(113+19)384(351、33)

数が合わないように感ずるが、数え始める日が違うからで、13日付け、6月26日付けの数字は5月26日から数えている。このひと月(5月26日から6月26日)の合計はこの二つを合わせた322人で、1日平均10人以上。1日あたりの逃亡者の数は13日までと26日まででほとんど変わらないので「相当減少」という記述は当当たらない。減ってはいない。

25日付けの384人にはそれぞれの小隊がロームシャを「継承」した日から26日までに逃亡した数がそれに加算されている。一番早く「継承」した渡邊小隊の場合は38日間、5月24日に「継承」した石井小隊や柴田小隊は33日間についての数字となる。中隊全体で「継承」から5月26日までの間に62人が逃亡したことがわかる。

中隊全体はともかく、渡邊小隊では逃亡者の数が減った。5月19日に継承してから26日までの7日間に25人が逃亡した(1日あたり平均3.6人)。13日付けの数字は5月26日から18日間で59人(3.27人)、26日までの13日間では14人とグッと減り、継承以来38日間の1日あたりの逃亡者数は平均2.58人。

渡邊小隊の担任した第8区は距離は長いが工事は順調に進行していたので、この時期、他の小隊に比べ、特に労務者を荒く使う理由はない。小隊からは5月25日に400人を鉄9に「移譲」、そのあと柴田小隊から400人引き継いでおり、その経緯の中で実際に逃亡したものもいただろうが、どさくさで員数があわなくなり、「いなくなったもの」を逃亡と勘定したことも考えられる。

月の後半、第6と第9の工区からは逃亡する者が増えていた。6区の石井小隊からは45人が逃亡、1日につき3.46人だ。柴田小隊は5月24日に「継承」後、2日間に28人が逃亡(3.51人)、13日までに42人(2.33人)、26日まで46人(3.54人)と逃亡者の数が多い。しかも柴田小隊は最も労務者の数が少ない(25日付けには総数が455人、26日付けには473人と記されている)。数が少ない小隊からもっとも多くの逃亡者が出ていた。第9工区は中隊本部から遠く離れ、連絡も悪く、食料補給が大隊本部の置かれたムアロを起点としていたならば、一番受けにくかったのではないか。第9は工区は短いが進捗が遅れ、他の工区より作業を急かされ、取り扱いが荒く、食料も途絶えがち、逃亡する気になる理由はある。

石井小隊からジャワ人の逃亡者が多いのは、単にこの工区にジャワ人労務者がずば抜けて多かったということではないか。石井小隊はジャワ人を1000人近く抱えていた。柴田小隊はわずかに50人。

*2)雑穀や野草を食べ、粗食暮らしをすること自体、なんら卑下することではなく、貧しいことでもない。むしろ、自然の摂理にかなう健康的なものだと積極的に捉える考え方もある。43年4月まで25軍の軍政トップだった渡邊渡もその一人で、石塚左玄の提唱した「身上不二」「食養」を自ら取り入れていた。渡邊は開戦前、東京に南方軍政要員候補を集めて訓練したが、大谷光琳や徳川義親はともかく、桜沢如一を招き講演させた。桜沢は戦後マクロビオティックの「開祖」として世界的に知られるジョージ・オーサワだ。

オーストラリア生まれのパーマカルチャーでも野草を食生活に取り入れ、雑穀を奨励する。ミナンカバウの土地では今でも「野草」や多年生の「果実」が食事の一部であり、それは「身上不二」に近い。一年生の「野菜」に頼る「西洋式」で「近代的」な食生活に代わるものとして、取り入れる人も増えている。しかし、大井中隊が雑穀や野草を食べ、ロームシャに振る舞ったのは「食養」の見地からではない。コメや野菜の不足を補う窮余の策だった。それがたとえ理にかなうものだとしても、それを他者に強要することは別な問題だ。

*3)患者の数、死亡者の数を小隊ごとにまとめた。総数に対する死亡率は5%以上。

逃亡者の数字と同じように、25日付けの死亡者の数には「継承」から26日までの間の死者26人が含まれている。5月26日から13日まで、中隊全体では1日あたり6.33人の死者。それから6月26日までは平均7人が死んだ。逃亡同様、死亡にも歯止めはかかっていなかった。


患者の数(13日)死亡者患者の数(26日)死亡者患者の数(25日)死亡者
石井小隊50039(スマトラ10、ジャワ29)57230(7、23)
57268(16、52)
間島小隊13313(8、5)1243(2、1)13024(12、12)
渡邊小隊17040(30、10)15524(17、7)16079(57、22)
柴田小隊16022(16、6)13234(22、12)13260(41、19)
全体963114(64、50)98591(48、43)996231(126,105)
総数348333283331

*4)例えば「南方軍の兵站と軍政産業」p2190。

*5)大井中隊の工区のロームシャの担当医官は向林喬だった。44年8月から(同年12月まで)ペカンバルに近いシンパンティガの病院長だったが、この陣中日誌の書かれた6月にはタロックにいたものと思われる。メダン裁判で4年(求刑6年)の判決を受けた。

*6) 6月ひと月で大井中隊は延べ73581人のロームシャを使役し23666立方メートル(1日平均789立方メートル)、ロームシャひとり1日平均0.32立方メートルの土砂を動かした。

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