パダンの5ヶ月

76年前の45年8月17日、スマトラを含むインドネシアは独立を宣言した。それを読み上げた初代大統領のスカルノ、副大統領のハッタ(*1)などの「建国の英雄」についてはすでにさまざまな研究がある。横断鉄道の現場などで使役されたロームシャの動員に建国の父、スカルノはどう関わったのか。そのメカニズムや過程を調べているがまだ、わからないことばかりだ。

だが、はっきりすることもある。

日本ではなぜか、「オランダにより自宅軟禁されていたスカルノを侵略した日本軍が解放した」という言説が広く流布している。蘭印政府の手で囚われていたスカルノを解放したのが今村均だというのもある。スカルノ解放は今村ヨイショの文脈で、「温情」を示す一つの勲章のようにとりあえげられることが多い。

日本軍が真っ先にやったのは、オランダ政府によって流刑されていた独立運動の指導者の解法である。まずスマトラのベンカリス島に流されていたスカルノ博士が救出され、ついでモハメッド・ハッタ博士もスカブミから救出され、スマトラではアブドル・カリム氏が救出された。

総山孝雄 『ムルデカ!インドネシア独立と日本』善本社 1998 p 24

日本軍は、オランダ植民地政府により軟禁されていたスカルノやハッタなどの民族主義運動の活動家を解放〜

「インドネシア独立戦争」に関するウィキ

植民地政府によって長く孤島に流刑されていたカリスマ性の高いこの二人(スカルノとハッタ)は、実は、日本軍の名司令官、「仁将」といわれた今村均大将によって、日本軍によるインドネシア占領直後の1942年2月に解放された。

堤寛 『父たちの大東亜戦争』幻冬舎 2010 p 192

日本の敗戦後、進駐した連合軍が囚われていた共産党員などを「解放」した、マッカーサーが監獄から解き放った。それと同じような印象で、今村の16軍=(スカルノの)解放者と見てしまうかもしれない。

これは正しくない。

今村が「仁将」だったのかどうかはともかく、そもそも植民政府がジャワから島流しにしたスカルノはジャワにいるはずがない。それをジャワに侵略した今村均の部隊がどうやって解放できるのか。やろうとするはずもない。命令するはずもない。それどころか、日本軍が到達する以前、スカルノはすでに自由の身だった。

スカルノは蘭印への侵攻の始まる2月、どこにいたのか。33年8月に逮捕されて以来、スカルノはフローレス島のエンデ、そして38年2月からはスマトラ西海岸のベンクールに流刑されていた。今村がジャワ侵攻の準備を進め、山下の25軍がマレー半島を南下、シンガポールに迫る頃、スカルノはスマトラで自宅軟禁されていた。

本国オランダはすでに日本の同盟ナチスの軍門に下り、蘭印植民地はすっかり孤立していた。植民地政府は、独立の闘士が日本軍の手に落ち、反オランダ活動に利用されることを恐れ、スカルノをオーストラリアに送ることに決めた。

パダンから出港する船に間に合うよう、4人の警官に連行され、スカルノが歩き出すのは2月22日、真夜中のことだ。南部パレンバンに侵攻、北上してパダンを目指す38師団(当時16軍の指揮下)が、ベンクールに到達したのは、その二日後、2月24日だった。

陸軍南方作戦経過要図
ビルマ作戦(大東亜戦史)42年11月発行より

警護にあたる警官は38師団の影に怯えていた。スカルノ、妻のインギ、養子のスカルティ、使用人のリウの一行は表通りを避け、村から村へ、いくつも川を越し、ジャングルの中を隠れて進んだ。

一行は歩き出して4日目に「ミナンカバウの地」に入り、そこからバスに乗り、パダンにその夜到着した。

パダンは日本軍の足音に怯え、混乱の極みにあった。結局オーストラリアへの船は手配できず、警官はスカルノたちを放り出してしまった。

上に引用した総山ら近衛師団がシンガポールを出発する3月8日、今村均がジャワ占領を終える3月9日、スカルノはパダンで日本軍の到着を待っていた。軟禁状態を解かれた独立運動の闘士は、近衛師団が到着する前にパダンで市民を集めた講演会に立ち、迫り来る侵略者に怯えて動揺する市民に冷静な対応を呼びかけた(*2)。近衛師団は3月17日、蘭印政府が無防備都市、開放都市(オープン・シティ)と宣言したパダンに無血入市する。

44年「独立」を約束されたあと「感激の」スカルノ

スマトラに侵攻した25軍の首脳たちはインドネシア独立運動について、関わる主要な人物についてもそれなりに聞き及んでいた。参謀副長で軍政のトップを兼ねた馬奈木敬信や渡邊渡、西海岸州の長官を務める矢野もインドネシアの独立運動に知識があり、そのメンバーがほとんどミナンカバウ人であることも承知していた(*3)。

いわゆるインドネシヤの独立という云ふことを叫んで居りますがが、其の大部分はスマトラ島のパダン出身者であります。

馬奈木敬信 「南方方面の事情(6月26日於軍人会館)」 学徒至誠会派遣団報告昭和11年度 p 261

取り越し苦労に終わるのだが、矢野などは恐る恐る赴任した。42年12月4日、各州長官会議における矢野兼三の発言。

戦前ひそかにインドネシア独立運動なんかをやっていたメナンカバオ族の任地だけに人心安定には懸念した。

叢書 南方の軍政 p 356

独立運動について知ってはいたが、進駐したパダンにスカルノが自由の身でいるとは思わなかった。

最初に接触したのはスカルノのほうで、インドネシア紅白旗の掲揚許可を住民の代表として日本軍に求めにいった。その時に、「あの」スカルノだと気がついたのだそうだ。

スカルノの自伝にはその後、25軍司令部が置かれたブキティンギへ交渉に出かける様子が描かれている。相手は、矢野の前任者で西海岸州の軍政支部長だった藤山三郎だ。スカルノは独立への道筋や独立後の青写真を描き、独立を新しい主人から勝ち取るため、何を犠牲として差し出すことに決めたのか。どこまで何を譲るのか考えたに違いない。そしてロームシャや「慰安婦」として、日本の戦争に身を差し出し、命を捧げることを国民に強いる覚悟をパダンでの5ヶ月の間に決めたのではないか。

スカルノがジャカルタに戻ったのは7月初めのことで、今村と会うのは当然、それからのことだ(*4)。25軍の統治するパダンで過ごした5ヶ月の経験が、のちにジャワに戻ってから今村などとの駆け引きや取引に影響したはずだ。ジャワに戻ってから、全国的な規模で展開する方針や政策の雛形はすでにパダンで25軍との交渉の中から生まれた可能性がある。

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*1)33年の大阪毎日新聞(4月15日付け)が、来日したハッタを直接行動派のスカルノに比べ、文治派とも言える「ジャワのガンジー」であると紹介する。

*2)倉沢愛子などの研究者は、42年暮れ、ジャワの宣伝班が作ったプロパガンダ映画「八重汐(JAESJIO)」に収録される演説が、スカルノが「対日協力を決めてから最初の登場」だったかもしれないと指摘する。この演説の行われたジャカルタでは「最初の登場」だったかもしれないが、独立の闘士はすでに3月初頭、パダンで民衆の前に10年振りに姿を表していた。あからさまに「対日協力」を呼びかけることはなかったかもしれないが、「対日反抗」ではなく、スカルノは侵略者と取引、交渉をするつもりだったことがわかる。

*3)確かに馬奈木が言うように、インドネシア独立運動はミナン人が主要な役割を果たした。ハッタとともに「建国の父」に数えられるスタン・シャフリール(Sutan Sjahrir、初代首相、社会党設立)、タン・マラカ(Tan Malaka、共産党委員長)、財務相、国立銀行総裁を務めたシャフルディン・プラウィラネガラ(Sjafruddin Prawiranegara)や初代外相のアグス・サリム(Haji Agus Salim)、第四代首相のアブドル・ハリム(Abdul Halim)、第五代首相ムハマッド・ナスティール(Muhammad Nastir)、憲法起草に参加、教育相、法相を務めた詩人ムハマッド・ヤミン(Muhammad Yamin)もミナン人だ。

ジョグジャに首都を移して独立闘争を続ける「インドネシア政府」をオランダ軍情報機関は「ミナンカバウ政府と言ってほとんど差し支えないだろう」と表現したが、48年、ジョグジャがオランダ軍の手に落ち、スカルノやハッタが拘束され、シャフルディン・プラウィラネガラを首班とする臨時政府の首都となったのはブキティンギだった。

これらミナン人独立運動家たちは自分の故郷で建設の進む横断鉄道についてどの程度知っていたのだろうか。

*4)10年振りにジャワに戻ったスカルノを今村などが歓迎する様子を「東印の太陽帰る」という見出しで大阪毎日新聞(42年7月13日付け)が報じた。

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