捕虜が辿らされた道

スマトラ横断鉄道の建設に最初に送り込まれたのは、ジャワ部隊21(Java Party 21)として知られる1925人(オランダ人1615人、イギリス人310人)の捕虜だ。このJava Party 21が建設作業に投入された1944年5月23日(24日とする史料もある)をもって、スマトラ横断鉄道建設作業開始の日とする記述がオランダや英語圏にはある。捕虜に限ってならば、それは正しいが、それまでに現地人労働者を使役し、軍属や企業の手で工事が進められていたことを忘れてはならない。

この後、ジャワやパレンバン、メダンなどの収容所から1944年末までに5000人近くがペカンバルに運ばれ、建設の現場に投入された。1回に送られる捕虜の数はさまざまで、メダンから1人の捕虜が5人の兵隊に護送されることもあったが、2000人以上が1度に輸送されることもあった。輸送途中に命を落とした捕虜もたくさんいた(建設の項参照)。

捕虜は収容所から別の収容所に移されることがあったが、ほとんどの場合行き先や行程は知らされず、行き先でどんな労働や待遇が待ち受けているのか知らされることはなかった。何の情報も与えられず、食料や水は十分に与えられず、伝染病が蔓延する劣悪な衛生状態の中、狭い場所に押し込められ、何日も移動させられるのが常だった。もっとも、それは日本軍の兵隊も同じで行先や目的を事前に知らされることはなかった。

Tanjung priok old and new
タンジュン・プリオ港駅の新駅舎(左上)と旧駅舎(右上)

(1925年発行 Staatsspoor en Tramwegen in Nederlandsch-Indie, 1875-1925 p.16)

最初にペカンバルに送られた捕虜はバタビアの港、タンジュン・プリオを出航、スンダ海峡を抜け、インド洋に出て、スマトラ島の西岸を北上してパダンに向かった。

捕虜の輸送に使われたのは中華丸という1920年に進水した船だ。山下汽船や大阪商船(ともに現在商船三井)などが所有した船は開戦前の41年8月、陸軍に徴発され、主に朝鮮との輸送に使われた。42年6月にいったん軍務を離れるが中華丸は43年10月に再び徴発され、今度は南洋に送られた。この時期のかなり詳細な航海記録が残っているが、ジャワからパダンへ捕虜を輸送した記録はない。「御用船」中華丸はちょうどこの時期、4月5日からスラバヤに停泊し、ほぼ二ヶ月後、6月1日にジャカルタに向けて出航となっている。

同じ収容所を44年6月27日に出発した1260人からなるJava Party 22はシンガポール経由だった(この時に使われた輸送船の詳細は不明)。

その2週間程前、6月14日には、スマトラ島内のパレンバンの馬来俘虜収容所第2分所から207人のイギリス人捕虜がめき志こ丸(1910年竣工、5785トン)でシンガポールまで運ばれ、そこからペカンバルに送られた。航海記録によれば、めき志こ丸は8月29日、重油を満杯の上に7000人以上の兵を載せてセレベスに向かう途中、米潜水艦ジャックの攻撃を受け撃沈、2000人以上が溺死した。

VAN WAERWIJCK

同じ島内のメダンからは陸路で送られることもあったが、大人数の場合は最初に船でシンガポールに運ばれ、そこからペカンバルという経路を辿った。マラッカ海峡はインド洋に比べると幾分安全だったが、ここにも連合国軍は潜水艦を配置していた。「スマトラ戦史資料」には44年6月22日、25軍がそれまでメダンにあった馬来俘虜収容所第一分所をペカンバルに移動したと書かれている。到着後、鉄道建設隊長の指揮下に入り「鉄道建設に従事」する予定だったが、シンガポールへの途上、25日、捕虜を積み込んだ治菊丸は英潜水艦に撃沈された。

それから3月程後の9月18日、Java Party 23と4000人程の現地人奴隷を積んだ順陽丸は、インド洋からパダンへ向かう途中英潜水艦の雷撃で沈没した。生き残った644人の捕虜は、20日にパダンに送られ、そこから鉄道とトラックでペカンバルに到着し、現場に投入された。

ペカンバルに投入された最後の大部隊は、メダンから送られた458人からなるアチェ部隊(Aceh Party)だ。それに先立って、アチェで道路作りの作業をしていたところからそう呼ばれた。サパール/カル(Sapar/Karoe)とよばれる炭坑への支線の完成を急ぐ司令部の肝いりで、彼らはペマタンまで列車で運ばれ、そこからバスで支線の現場に投入された(第14収容所)。道中で発病した20人は、11月3日に現地到着と同時に列車で第2収容所(病人収容所)へ送られた。炭鉱への支線はまだだったが、分岐点のペタイからペカンバルまで本線は通じていたことがわかる。また、病気の捕虜が積み込まれた貨車には石炭が積んであったと記述されていることから、ヤマの経営を請け負った三菱鉱山と軍属の手でロームシャを使役した採掘がすでに始まり、量はわからないがある程度の輸送がすでに行われていたこともわかる。

シンガポールとペカンバル間には、戦前マレー半島のプライとペナンの間に就航していたエリザベス号という連絡船が使われた。捕虜たちが「白い船」と呼んだ連絡船に250人ごと詰め込まれてペカンバルに送られた。この木造の定期連絡船「菊丸」で44年4月、スマトラに送られた岩井健はこう記録した。

旧式の3段膨張式蒸気機関を単調に回転させ、黒い煙を海面に流しながらマラッカ海峡を横切った。船室もないこの船は、上甲板にかろうじて天幕とベンチがあるだけ。

岩井健 p 176

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