支線

スマトラ横断鉄道の建設目的は何だったのか。ロガス炭坑(「サパ・カル炭鉱」とも言われる)への支線建設が本線の貫通よりも優先されたことに、その答えが透けて見える。36キロの支線(ロガス支線、炭坑線などと呼ばれた)は1945年2月に完成し、掘り出した石炭はペカンバルに輸送された。特設鉄道隊副隊長を務めた国鉄職員、軍属の奈須川丈夫は次のように記録している。

パカンバル、コタバル間の約100キロと炭坑支線を早期完成し、炭坑で生産されたコークスを昭南に送り込むよう内命を受けていたので此の間の施工に尽力し、昭和19年末までに完了、試運転の結果昭和20年早々、ロガス炭坑で生産されたコークスを昭南に向けパカンバル港より発送した。

江澤 p119

この頃、制空権・制海権の喪失に伴う戦局の悪化でスマトラ横断鉄道にもより安全な代替輸送手段として、「作戦鉄道」としての役割が新たに与えられたことは間違いない。しかし、この期におよんでも、この鉄道の本来の目的である石炭のマレー半島への輸送を急げ、という命令が出ていたのだ。その命令の意図するところは、製鉄所を立ち上げ、すでに内地からの輸送が困難になり補給がおぼつかなくなった兵器や船舶の現地生産を開始し、戦える自活自戦体制を急いで作り上げろということなのではないか。11月3日には458人の連合軍捕虜が支線建設のために、メダンから送られた。捕虜の大規模な移動はこのアチェ部隊(Aceh Party)が最後になる。

この支線の詳細について、日本軍の資料はあまりない。実際に鉄道の走ったルートもそれを記す地図はない。これを明らかにしたのがペカンバル在住のニュージーランド人、ジェイミー・ファレル(Jamie Farrell)で、仕事の合間を縫っては現地をくまなく踏査し、線路の走った場所やメカニズムを解明した。本線のルートや18の捕虜収容所についても詳細に位置を割り出している。(彼と家族が制作したビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=h64xcd-s_l0
)

ファレルによれば、コタバルから分かれた支線(本線と同じ軌間)はタピ川沿いに起伏の少ない場所を選びながら走り、第14A収容所があった場所にたどり着く。今はすっかりアブラヤシが茂っているが、機関車の待機線と思われる跡が残り、ここが「駅」だったことがわかる。また、収容所内には発電所の跡もあり、ファレルはここで電気関係の部品を拾ったという。ここで電気を使う作業が行われ、たぶん、夜を徹して作業をしていたことが想像される。石炭を製鉄用のコークスにする炉もここにあったのかもしれない。

そこから川を渡ると、すぐに急斜面が立ちはだかる。鉄道ではとても無理な傾斜だ。ここが、たぶん、岩崎健児大尉が下記で言う「タブイ駅落差地点」かもしれない。この斜面の下で待ち受ける貨車に上から石炭を落としたのだろう。

コークスを運び出すためには、まず軽便鉄道で搬出し、途中のタブイ駅落差地点で、下で待つ重列車の無蓋貨車に、斜面のシュートから一挙に落下させる構想である。(江澤p.118)

DSM 30:Neumann

この斜面の上から狭軌の線路が炭坑(サパール炭坑、カル炭坑とも呼ばれる)まで走っていた。その先には手押しの軌道もあった。

ここでは、北スマトラ、メダン近辺から持ち込まれた小型の機関車、クラウス社製のDSM30が使われた。たとえ小型にしても、重量のある機関車をどうやって斜面の上まであげたのか、それもわかっていない。ファレルは多分、ジグザグのスイッチバックで運び上げたのではないかと推測する。この炭坑線についてはオランダや英語圏、インドネシアでは軌間が700mmだったと信じられているが、岩崎などは750mmだったと書いている(江澤p.108)。

こうしてこの路線建設の目的である石炭輸送は始まり、1日50トン程度の石炭がペカンバルに運ばれ、そこから船でマレー半島に運ばれた。しかし、比較的安全と思われたマラッカ海峡も連合軍に制空権・制海権を奪われ、シンガポールへの輸送船に事欠き、ペカンバルには石炭の山がいくつも並ぶ有様だった。

第25軍の司令部の置かれたブキティンギの憲兵分隊長の河野誠の回想。

すでに埠頭には大きな暁桟橋、その下流に巨大な石炭桟橋も完成し、待望の鉄道も開通し、続々ロガス炭坑の無煙炭が運ばれ、石炭の山がいくつも出来ている。パカンバル駅も出来て、貨客の輸送は大幅に増大した。(江澤p.121)

これほどまでに急いで作られた支線だったが、敗戦後はいちはやく見捨てられ、撤退したようで、捕虜解放の使命を帯びて第14、第14A収容所を訪ねたジェイコブズ少佐は訪問した時のことを、こう書いている。

此処には、かつてジャングル鉄道で働いていた分遣隊の残りのオランダ人捕虜が数百人いると聞いていた。行ってみてわかったことだが、この人たちは外の世界から完全に切りはなされていて、戦争が終わったことさえ知らなかった。ジャングルの中に取り残されて、彼らは想像を絶した原始的な暮らしをしていた。多くの者は生き続けるために木の皮や草の根を食べることをおぼえた。(『モンスーンへの序曲 スマトラの連合国人抑留所解放記』p.178、原著p.110)

ジェイコブズらに同行した日本軍将校ヨシダも、とても直視できないような惨状だった。

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