建設のあらまし

オランダ領であったスマトラ島に日本軍が侵略を始めたのは1942年2月14日のことで、陸軍落下傘部隊によるパレンバンの急襲を皮切りに、陸海から島への攻撃が始まった。シンガポール陥落はその翌日のことだ。2月27日には西村琢磨の率いる近衛師団が第一南遣艦隊(小沢治三郎中将)の軽巡洋艦「那珂」や「川内」の護衛のもと、北スマトラに上陸、3月27日には島全部の占領が終わり、25軍の統治が始まった。

運炭路線としてスマトラ島の東西を結ぶ鉄道を立案し、ムアロとペカンバル、東西の起点を選んだのは1942年6月に南方派遣軍経済交通顧問という肩書きで現地調査に入った増永元也だ(「ムアロとペカンバルが結ばれたいきさつ」参照)。しかし、そもそも増永らをスマトラに派遣したのは陸軍のどの辺りで、どのような経過だったのか。軍政部長の渡邊渡が直接選んだのか、第25軍の関係者の人選だと思われるが。まだはっきりと判らない。

スマトラ侵略当時、陸軍トップの大本営の下に東南アジアの部隊を統括する総軍として41年11月に南方軍(岡集団)が編成された。総司令部は最初、サイゴンに置かれ、その下には第三野戦鉄道司令部、ジャワなどを統治した第16軍(治集団)、馬来とスマトラ担当の第25軍(富集団),そしてビルマの第15軍(林集団)などが置かれてていた。岡集団は1943年当時、兵力30万を抱える巨大組織だった。

日本軍の占領時代、スマトラを統治した第25軍が編成されたのは1941年7月のことで、南方軍が編成される前のことだ。司令官は飯田祥二郎中将、参謀副長は印度支那派遣軍の参謀として現地に通じた長勇。25軍は41年7月28日、サイゴンの北東300kmほどのナトランに進駐、日本軍の南部仏印進駐の口火を切り、これが英米蘭などとの間の戦争へ直接のきっかけとなった。

同年11月、山下泰文中将を新たな司令官に迎え、25軍は南方軍の戦闘序列に編入された。25軍には山下が司令官に任命された当初から軍政部が置かれ、参謀副長の馬奈木敬信が初代軍政部長を兼任した。侵略後の統治をどうするか、侵略を始める前から準備、計画していたことがうかがえる。

マレー作戦では進攻と同時に軍政支部が設置され、シンガポールには攻略の翌日、軍政の本部となる軍政部が設置された(昭南軍政部)。翌月までにマレーの各州、シンガポールには長官が任命され、軍政の形態が一応、整っていく。

スマトラは42年3月侵略後、25軍の軍政部がシンガポールから統治したが、マレー半島のようには軍政移管が進まなかった。当時の月報から。

(42年5月の月報)5月5日、馬奈木の後、軍政部長についた渡邊渡は北スマトラで開かれたスマトラ北部州の軍政部長会議に来島し、砂田重政顧問とともに島内を視察したと記載されている。渡邊は「スマトラと馬来の一体統治の必要を確信した」。

(6月の月報)14軍(治集団)との連絡会議が6月20日から3日間、昭南で開かれ、(「治」からは原田軍政部長、天日産業局長などが参加)、それに先立ち、スマトラ南部支部長会議が開かれたことが報告され、「軍政がすでに第二段階に入った」という認識が示されている。

「一体統治」が理にかなっていたことは江澤も指摘する(46~7ページ)が、「第二期」に入ったと言いながら、スマトラまでなかなか手が回らなかったようで、各州に長官の派遣が終わるのは8月になってからだ。それまで5ヶ月ほど、スマトラの軍政は第38師団(第16軍から25軍に移管)や近衛師団など「第一線軍隊」が担当しなければならなかった。

25軍が既存の鉄道路線について最初の調査を行うのは1942年4月のことで、旬報には陸運調査という項目の下、東京から8名の調査団が昭南に到着し半島の鉄道の調査を開始したと記載されている。スマトラに関しては、全島の「平定」直後、北部の鉄道調査運営のため、マレーにいた第5特設鉄道隊の職員、12名が送られた(*1)。

それらの鉄道は軍の鉄道隊(北部は鉄道第9連隊の第1大隊)から軍政部に6月以降、順次移管されていった。

鉄道管理局は軍政監部に属せしむるを適当と認めあり
この場合に於て作戦上の要求に対して優先充足し得る如く萬遺憾なき如く措置せられ度

1942年8月7日付け軍政総監指示

スマトラの鉄道は、軍の直接管理から、軍政部支部長(それぞれの地区の司令官)を局長とする三つの鉄道局に移管された。鉄道の運行は6月上旬から再開され、運行を助けるため、第4特設部隊所属の国鉄職員がそれぞれの鉄道局に配属された。

増永元也を団長とする6名のスマトラ視察が行われるのはこうした状況のもと、6月のことだ。増永はスマトラの資源をマレー半島に送るために横断鉄道を構想し、そのルートを決めた。

増永らの構想はすでに9月には始動する。「スマトラ西海岸州と昭南との新交通路開拓計画」というタイトルのもと、「同州の重要物資運送並びに来往は昭南と急速に接近せしむる必要あるを以てスマトラ西海岸州とリオ州パカンバル間陸上運輸送路と「パカンバル」「シヤク」河の開拓に依る輸送路を計画し本月上旬実地調査に着手」したことが伝えている(9月1旬旬報)。

同州の重要物資運送並びに来往は昭南と急速に接近せしむる必要あるを以てスマトラ西海岸州とリオ州パカンバル間陸上運輸送路と「パカンバル」「シヤク」河の開拓に依る輸送路を計画し本月上旬実地調査に着手

「スマトラ西海岸州と昭南との新交通路開拓計画」9月1旬旬報

とりあえず戦闘が一段落し、25軍首脳部の関心は重要資源の開発、輸送に移っていた。ここで述べられる「重要物資」は粘結性の石炭をさすものと考えられる。鉄道の目的が石炭の輸送であったことがここからはっきりと見て取れる。横断鉄道は「シヤク河の開拓」とセットで、シンガポールへ連なる輸送路の一環だった。この鉄道の建設目的を防衛のために兵士や兵站をマレー半島から輸送するためだったと主張する意見もあるが、増永が企画した時、資源輸送だけを考えていた。占領から半年、増永らの視察から3ヶ月後、ペカンバルを東の起点とするルートも決まり、建設への歯車が動き出す。

この頃の「スマトラ中部横断鉄道路線測量計画の進捗」は次のように報告されている。

スマトラの軍略的見地よりする交通整備の緊要なるに鑑み先般来スマトラ中部横断鉄道建設計画を樹立討議中の処 測量並びに調査を鉄道総局に於いて実施し、軍鉄道隊に於いては右計画を援助する事となり 第一着手としてムアロ~パカンバル間より実測を開始する事に決定、着々進捗中なり

12月の月報

しかし、大本営はその建設に冷やかだったことは、11月末に南方軍の黒田重徳参謀総長が中央に送った電報への返電から見て取ることができる。スマトラ横断鉄道も泰緬鉄道同様、現地軍の独断で大本営が指令を待たずに作業が着々と進められていく。

「測量並びに調査」を主導したのは陸軍鉄道連隊ではなく、第25軍の軍政部外局としてその前月、11月にクアラルンプールに軍政部の外局として三富秀夫(新潟鉄道局長)を局長として設置された鉄道局だ。鉄道局の編成は41年10月に編成された国鉄職員の軍属部隊、第4特設鉄道隊の司令官を務める鎌田銓一だ(明石陽至編・解説『渡邊渡少将軍政(マラヤ・シンガポール)関係史・資料』p 156)。この鉄道局主導で12月、100名ほどの国鉄職員の軍属がマラッカ海峡を渡り、鹿島、西松、間、大林、大成、錦城組の民間業者とともに測量や基礎工事を始める。ジャングルの伐採や下部構造の建築に駆り集めた現地人奴隷を使役したのはこれら軍属(民間人)や民間業者であり、まだ「軍隊鉄道」は関わっていない。(*2)

線路の規格は概ね国鉄の丙線規格を標準とした。

軌間1米067、最小半径200米、最急勾配25、停車場18、通信設備、工事用の一回線を辛うじて保持す。運転方式、未設備。(略)

全延長は渓谷地区の約70キロと平坦地区の約150キロに大別される。

工期的には主要工事は渓谷地区の岩石土工約150万立米(使用火薬約150トン)、重なる橋梁一ヶ所と平坦地区の主要橋梁三ヶ所、ジャングル湿地帯築堤約35キロ間の工事であった。(略)

路盤工事は渓谷地区を6工区、平坦地区を5工区に分ち、全て請負工事にした。業者は工事事務所の附属要員として編成された。西松、間、大林、鹿島、大成の5社(のちに在現地業者錦城組を加える)を各社各地区1工区あてに附属配置した。(略)

労務者数は最盛期には3万以上を要した。

岡村彰 「スマトラ横断鉄道の建設」『鉄道技術発達史 第1篇(総説)』 日本国有鉄道 1958 p 242〜243

43年4月、25軍はスマトラ中部の高原都市、ブキティンギに司令部、軍政部を移し、これから敗戦の日までスマトラの防衛と軍政に専念する(「さらば昭南:25軍と南方軍の確執」参照)。

全般の戦況は我に有利ならずしてスマトラ防衛の要ますます増大せるのみならず民政の実施及び物資取得上より見るも尚一段と軍政の滲透を期するの必要あるに拘らずシンガポールより海を隔つる指揮は総ての点に於いて不便且不徹底の点多きを以てマライとスマトラを分離し第二十五軍はスマトラに前進してスマトラの防衛及び軍政に専念せしむるにとし四月十九日付けを以てマライ、スマトラ両軍政監部の編成行われたり

「南方作戦に伴う占領地行政の概要 昭和21.7:別冊其の3 スマトラ軍政の概要/2、スマトラ軍政の分離」

25軍軍政部の移駐に伴い鉄道運営機構も分離され、それまで馬来陸輸総局の1局だったスマトラの鉄道は、新たにスマトラ軍政監部(富軍政監部)の外局として設けられたスマトラ交通総局に移管した。横断鉄道の基礎工事は相変わらず、25軍の「軍政監部の直営工事」(『間組百年史』p690)で続けられていた。

南方軍が大本営に横断鉄道の許可を求めるのは1943年9月のことだ。

1)中部スマトラ西海岸地帯に対する後方連絡線を確保し
2)「ロガス」炭鉱の開発をなすを目的として中スマトラ鉄道の「ムアロ」からカンタン川に沿う昭南向け河港「パカンバル」に至る中部スマトラ横断鉄道の建設

中央の認可を得ることができれば、これまで軍属という民間人と民間企業だけで進めてきた工事に鉄道連隊の投入が可能になる。しかし、この時の軍中央の反応は冷ややかなもので、決して乗り気には見えない。戦略的価値が泰麺鉄道に比べると劣り、しかも泰麺鉄道の建設の見通しが立たず、労力や資材はそちらに優先してまわさなければならなかったからだ。軍中央はスマトラ横断鉄道の建設に「むしろ反対の立場を採った」と見ることができる。(元参謀本部第3部鉄道課の久保田茂「大東亜戦争間に於ける軍事鉄道記録 其三」、第三款其五、p69)

なお、オランダやインドネシアにはスマトラ横断鉄道の建設開始をこの43年9月とする記述が多い。それはこの南方軍から中央への具申を建設開始ととらえるからかもしれないが、中央の冷ややかな反応を見れば、それが果たして正しい解釈といえるかどうか疑問だ。戦時中、さまざまな雑誌が「建設を計画」と報道した42年12月12日が建設の開始と見るのが妥当だろう(*3)。

大本営の態度が変わり、南方軍の申請を認可し、スマトラ横断鉄道の建設に「軍隊鉄道」の派遣を認めるのはその3ヶ月後、1943年12月、泰麺鉄道やそれを補完するクラ鉄道の目処がついてからのことだ。

大本営は鉄道建設計画を認可し、爆薬その他特殊資材の「若干」を融通するが,基本的に資材や労力は現地調達という条件だった(久保田、前掲、p70)。建設を進めてもいいが、資材は自分で調達しろというのだ。大本営のこうした態度はスマトラに限ったことではなく、日本軍の作戦行動はほとんどいつもこの調子で、侵略した軍隊の自活自戦主義だった。そういう条件だったが、とにもかくにも中央の認可を受け、スマトラ横断鉄道の建設が軍の案件として「正式」に動き出したのは1944年1月のことだ。

同じ年の4月16日、総勢1200〜1300名からなる中部スマトラ横断鉄道建設隊が編成され、建設が本格化する。主力はクラ地峡横断鉄道、泰麺鉄道でタイ側からの工事を担当した鉄道第9連隊第4大隊(第7中隊、第8中隊、材料廠、約600人)、それに鉄道第8連隊第一大隊が工事に加わった。隊長は戦後メダン法廷で死刑を求刑され、無期懲役の判決を受けた鋤柄政治大佐(南方軍野戦鉄道司令部)。連合国軍の捕虜がジャワなどから連行され、使役されるのは翌月以降のことだ。それから約1年4ヶ月、ロームシャや捕虜は地獄の環境で文字通り死ぬまで酷使され、鉄道は曲がりなりにも貫通する。1945年8月15日。玉音放送の流れた日だ。ペカンバルから178km、ムアロから42kmの地点、タルサンチキとパダンラップの間で線路が連結し、全線が開通した。

こうした苦心の末、スマトラ中部横断鉄道は正式に決定し、直ちに測量部隊が本格的に測量を始め、2ヶ月あまりで測量を終わり、直ちに工事に着手し、鉄道建設隊の非常な努力が見事結晶して完成しました。

増永「東南アジアとその資源」p101

増永に限ったことではないが、徴発され、使役され、殺された何万人ものロームシャや連合国捕虜のことが、工事に関わった軍属や軍人の頭をかすめることはこれっぽっちもなかった。

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*1)この調査に派遣された12名の一人、木村源三郎(第5特設鉄道隊の工務隊は第8特設鉄道工務隊と呼ばれた。通称「乙三」)はこの経過を次のように書き残す。木村が乙二部隊の指揮下でマレー鉄道西部線の復旧作業中、平城盛康と共に 近衛師団長の指揮下で北スマトラ鉄道の調査、運営を命じられたのが4月1日のことだった。輸送、運転、工務、工作の担当者、通訳の12名は加賀鉄道官を長として4月26日に昭南出帆。3日後にベラワン上陸、メダンに入った。鉄9菅野中隊から業務を引き継いだ。

北スマトラの鉄道はデリー・タバコ会社の経営したメダンを中心とするデリー鉄道540キロ(軌間1メートル)とペシタンからコタラジャに至るオランダ政府が軍用目的で敷設したアチェ鉄道520キロ(軌間0.75メートル)のふたつがあった。木村によれば、戦闘による破壊は軽微で復旧作業はほとんど終わっていた。デリー鉄道に関してはテビンチンギ橋梁橋桁の復旧が残っていたが、オランダ人技師を捕虜収容所から連れ出して設計を担当させ、工事は現地従業員が実施の手配をした。軽便軌道のアチェ鉄道は軌道が道路に敷設された箇所も多く、橋梁は公道との共用が多かった。数カ所の橋梁が破壊されていただけで、復旧は極めて容易だった。

鉄道の運営は6月1日に軍政部に引き継がれ、木村ら5特から派遣された国鉄職員はスマトラ東海岸州軍政支部要員となり、接収したデリー鉄道の本社に置かれた北スマトラ鉄道局に勤務、その後も7月上旬に第4特設鉄道派遣員に業務を引き継ぐまで橋梁の復旧や線路建造物の保守に当たった。 (木村源三郎「北部スマトラ鉄道の調査と運営」『戦うビルマ鉄道隊』p 138)

*2) 三富と同じ8月28日付けで熱海建設事務所長だった河西定雄も陸軍司政長官に任命された(神谷睦夫 編『大東亜戦捷記 : 大本営公表 第2輯 大本營公表』川瀬書店 1942 p 216)。

鉄道省各建設事務所から集められたのは橋梁修理を専門とする技師たちだった。彼らは11月17日にシンガポールに到着するまで4特に配属され、マレー半島で破壊された鉄道(主に橋梁)を復旧にあたるものとみられていたが、「昭南上陸前夜、船の中で」(奈須川丈夫 p202)なのか、昭南到着後(笠谷 p198)なのか、突然、スマ鉄建設を言い渡され、急遽、総局の技術最高責任者の河西の下に編成された建設隊に組み込まれた。

12月14日、増員(約30名)が機器具と共に到着したが、駅長や機械屋ばかりで土木屋は一人もいなかった(河合 p9)。総勢123名ほどの軍属部隊は12月16日、この移動のためにペナンから調達した観光用フェリー、エリザベス号で出航した。副隊長の岡村彰(岡山建設事務所長)は飛行機で先行。隊長の河西は30日、スマトラに向かうため乗り組んだ飛行機が墜落し死亡。岡村が昇格。43年1月1日、約80名の隊員でペカンバルで杭打ちをした。1月中に後続が到着し、軍属部隊は総勢250名ほどになった。

*3)戦時中に発行された雑誌のいくつかにスマ鉄の建設開始が言及されている。

『朝日経済年史 昭和17 18年版』(朝日新聞社経済部編 1943年p 243)

『拓殖論叢』(日本拓殖協会 1943年07月号p160)

『南洋經濟研究 』は占領した南方各地の経済復興の模様を扱う「南方建設資料」というセクションで「中部スマトラに横断鉄道建設」という見出しのもと「産業開発の前提条件たる交通機関の復興について今日スマトラにおいて西スマトラ横断鉄道建設が計画実施されることとなった。」(南洋經濟研究所 1943年2月号 p 78)

『南洋』(南洋協会)は43年3月号で「今回スマトラにおいて西スマトラ横断鉄道の建設が計画実施されることとなった」と短く触れ(p 139)、翌4月号では測量の開始を伝えた。

マライ鉄道総局ではスマトラとマライの距離を短縮するスマトラ西海岸〇〇から東海岸〇〇に抜ける横断鉄道計画を凡ゆる困難を廃して実現をはかる事に決定、先日から現地に建設事務所を設けて測量を開始した。

p 126

『大東亜地域の交通』(山本広治 日光書院 44年)は「南方建設状況調」というまとめコラムで(昭南42年12月11日発電)を引用し建設計画発表を報じる(p 77)。そしてp 358 で

従って東印度占領地区における既存鉄道がほとんど復興したる現在、優秀なる鉄道技術を有する日本に課せられたる鉄道施策問題のうちでは、既存鉄道の改善は別として、鉄道未発達のスマトラや鉄道皆無なる南ボルネオ、セレベスなどの諸島に鉄道を新設することが最も重要である。すでにスマトラにおいては西スマトラ横断鉄道の建設が計画されることになった。この決定は昭和17年末のことである。

どれも出来事年譜、短信をまとめた記事の類で詳細には触れていない。しかし、どれも「建設を計画」を12月12日付けで報道している。特にこの日付に何があったのかわからないが(昭南12・11発電)がそのソースのようだ。

一般の雑誌で建設が公表されていたこと自体が極めて興味深い。作戦用の軍事鉄道であれば、なるべく秘匿しようとするはずで建設そのものについても公表しないものと思われるが、スマ鉄に関してはルートこそ伏字にされ隠されてはいるが、建設そのものについてはこのように大っぴらに一般の雑誌で報道されていた。どれも「建設を計画」と歯切れが悪いが、建設にとりかかったことは隠していない。多分、軍属部隊の投入を決めた交通総局など25軍の軍政部なのか、軍政トップ、軍政部長の渡邊渡あたりが記者会見をしたのかもしれない。渡邊は新聞記者とも親しく付き合っていたことが日記の記述から読み取れる。

この路線が秘匿するべき作戦用の軍事鉄道ではなく、「産業開発」「経済振興」のための軍政鉄道だったことを示している。

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