さらば昭南: 25軍と南方軍の確執

戦時中、鉄道輸送の専門家だった河村弁治は戦後47年11月にまとめた報告で、横断鉄道について次のように触れる(*1)。

横断鉄道建設は南方地域全般より観てその可否に異論があって紆余曲折を経て遂に建設することに決定せられたが工事着手後も竣工期の延期等によりこれに当たる当事者は種々苦心した。

軍事鉄道記録 大東亜戦争・7 ③スマトラ鉄道状況 p42

横断鉄道建設が一筋縄では行かず、「異論」があり、「紆余曲折」があり、やっと着手してからも竣工時期が遅れたことをほのめかしている。河村は詳にしないが、いくつかの文献からそれを探ってみる。

25軍軍政のトップ、渡邊渡は測量を42年度内に終え、43年度早々(4月以降)には着工するつもりでいた。しかし、実際に本格工事に取り掛かるのは一年後、44年に入ってからだ。なぜ着工が遅れたのかを直接説明する史料はこれまで目にしていないので、その経緯は類推するしかない。

遅れの最大の原因は、それまで横断鉄道を企画推進してきた25軍がマレー防衛の任を解かれ、シンガポールからスマトラのブキティンギに司令部を移したことが大きく関わっているのではないか。その背後には25軍と南方軍、25軍と大本営の確執があったと思われる。

1942年11月、まだ25軍が司令部を置いていたシンガポールを徳川夢声は慰問に訪れている。無声映画の弁士を皮切りに漫談や随筆、俳優など様々な分野で才能を発揮した鬼才、徳川は開戦後、南方地域を慰問で回った。昭南特別市長だった大達茂雄(*2)と戦後、1954年に対談を行い、当時を回想している。

夢声:ぼくらがいったときも、ヤッペイタさんだったな。その時分、総軍司令部と二十五軍の司令部がけんかですよ、ことごとに。これはいけないと思ったですね。
達:黒田(重徳)という総参謀長と斎藤ヤッペイタが東条(英機)へのきげんとり競争から、けんかばかりしとる。とうとう二十五軍がスマトラへ追い出されるとともに、ヤッペイタは参謀本部付ちゅうものになった。それと同時に阿南惟幾(あなみこれちか)と今村均が陸軍大将になったんです。あれらは陸士の同期で、ヤッペイタが一番、今村が二番、阿南なんちゅうのはビリに近かった。とにかく、成績のわるいのがみんな大将になって、首席の斎藤は参謀本部付にされちゃった。参謀本部付というのは、東京へ帰って待命を仰せつけられるちゅうことなんですよ。

徳川夢声の問答有用② 朝日文庫 1984年

二人が「ヤッペイタ」と呼ぶのは斎藤弥平太だ。42年7月、山下奉文が満州に飛ばされ、代わりに25軍司令官に就いた。二人が回想するように25軍と南方軍の間はギクシャクしていたようだが、それは進駐する以前からのことで、41年11月に徴用され、シンガポール攻略時から現地で英字新聞(The Syonan Times)の編集長を勤めた作家、井伏鱒二も「徴用中のこと」(講談社 1996年)で25軍と南方軍の確執、25軍と大本営の反目について何度も書いている。素敵な解説付きのダイジェスト版から引用。

(25軍の尾高少佐が大本営からの突然の命令で転属させられた件。)

司令部を通さないのは異常な人事である。《真相は私たちには不明だが、大本営と第二十五軍の軋轢から派生した瑣末事の一つだらうと云はれてゐた》

p 175

(映画「秀子の車掌さん」(原作井伏鱒二、監督成瀬巳喜男)に25軍参謀が難癖をつけて上映禁止になった件。)

マレー軍第二十五軍の山下司令官の幕僚は総軍と仲が悪い。多分、成瀬監督の所属していた映画会社は大本営か総軍に働きかけてこの映画をシンガポールに送ったのだろう。そのために上映禁止になったのかも知れない。

《私は軍部のことは殆ど何一つ知らないが、第二十五軍のなかで大本営の話を持ち出すと、損にはなつても得にはならないことを知つた》。芸能関係の慰問団も、第二十五軍の招待で来るのと、大本営の斡旋で来るのとでは、迎える将校たちの態度に雲泥の差があった。

p139

南方への侵略開始当時から、25軍と南方軍の間には相互不信、対立があった。当時同盟の記者として従軍した篠原滋(執筆当時は共同通信の整理部次長)によれば、両軍はマレー侵攻作戦が展開する42年1月ごろすでに「犬猿もただならぬ対立状態」にあった。発端は「まるで子供の喧嘩」だった(*3)。

開戦の朝、コタバルに血の上陸作戦を行った侂美支隊の勇戦を称賛して総軍司令官寺内元帥から同支隊に感状が授与されたがその際、侂美支隊の上級指揮者である山下軍司令部に事前連絡を行わず、総軍司令官が直接感状を授与したのは筋違いであり、「けしからぬ」といってむくれたのがことのはじまりである。

まるで子供の喧嘩である。しかし個人の場合も、団体の場合も一度、つまずいた感情は反目に反目を呼び、猜疑は猜疑を生んで両者の関係をいっそう悪化させるものである。(略)

その後両司令部は再びシンガポール攻略のため投入される牟田口中将の第18師団主力をどこから上陸させるかーシンガポール北方の東海岸の要衝メルシンから敵前上陸させようとする総軍案と、ーシンゴラに上陸させて陸路をジョホール州に集結させようとする現地軍の案とが真正面から対立していがみ合い、深刻な局面を現出した。この主張の対立は結局総軍側が折れて落着したが、余燼はなおしきりにくすぶりつづけていた。

篠原滋 「一千キロの急進撃」『秘録大東亜戦史第3 改訂縮刷決定版』富士書苑 1954 p 65

「スマトラの帰属」をめぐる意見の対立もそうした感情のもつれのひとつだったのかもしれない。それに加えて東京とサイゴンには「山下人気」に対する警戒心があった。

こういう山下人気が東条首相を喜ばせるわけがない。疑い深い東条の眼に当時の山下の姿は恐るべきライバルと映ったに相違なかったのである

そのうえサイゴンに本拠を構えて南方総軍司令官の地位にある寺内寿一大将にとっても、山下は面白くない存在と思われていた。山下の隆々たる名声は彼の直属上官である寺内の功績をスッカリ奪う形になったからだ。

そこで山下が沸き立つ人気に酔っていた時、東京やサイゴンでは山下ブームに対する対策が徐にねられていた。

津吉英男「マレー軍追放」『秘録大東亜戦史 第3改訂縮刷決定版』富士書苑 1954 p104

スマトラを侵略した後、どこの軍が軍政を敷くのか、その担当すら決まっていなかったことはすでにふれた。マレー派遣軍は要員の準備もないままスマトラ支配に取り組むことになった。その過程で、スマトラを将来どうするのかが議論され、25軍首脳の間では「マレーとスマトラの一体化」という将来像が共有されていく。この経過は、南方軍の参謀だった石井秋穂が「南方軍政日記」に書き残している(*4)。

「マレーとスマトラ一体化」はスマトラをインドネシアから分離し、マレーとともに帝国領土にすることだった。スマトラ全島が平定される3ヶ月前の41年12月31日、山下からそれを聞かされたと石井は記録する。マレー作戦は未だ進行中のことだ。

山下から「マレーとスマトラの一体化」を耳にしてから10日ほど後の42年1月、それを東京に進言するために渡邊渡が派遣された。途上、渡邊はサイゴンに立ち寄り、南方軍司令部の意向を尋ねた。石井は南方軍参謀長の塚田攻とともに渡邊から直接話を聞いた相手であり、「一体化」の経過、そして25軍と南方軍の衝突の経過を誰よりもよく知る人間かもしれない(*4)。

スマトラ陥落からひと月ほど後の4月29日、天長節を記念する催しがシンガポールで開かれた。集まった現地人に向かって、進駐軍司令官の山下は

特にこの度新たに大日本帝国の臣民となれる馬来「スマトラ」の住民

光輝ある帝国の新附の民

陣中新聞建設戦 42年4月29日号

と呼びかけた。

マレーだけでなく、スマトラの住民は全て「新たに大日本帝国の臣民」となった、と山下が宣言したのだ。すでに見た通り、中央はマレー半島を帝国の領土にすることは考えていたが、スマトラについてはまだ態度を決めかねていた。スマトラがマレーと一緒に語られたこと、それも中央の指令も待たずに現地が独断でこのような発言をすることに不快感を示した。数日後の5月2日、「現地軍発表用語の件」という電報が南方軍あてに送られた。

新聞発表によれば天長節当日に於ける第25軍司令官の謹話中に「特にこの度新たに大日本帝国の臣民となれるマレー、スマトラの住民」ならびに「帝国の新附の民」の語あるも、果たして事実とせば帝国として帰属問題を発表しあらさる今日、現地軍限りに於いて帰属問題に関係あるが如き用語の使用を為すは適当ならざるにつき特に配慮を相成度

中央にしてみれば、マレーは香港とともにゆくゆく帝国の直轄にするつもりだったが、「このほど、新たに臣民となれる」とは、まだちょっと気が早い。スマトラの帰属は微妙な問題であり、インドネシアの民族主義者の神経を逆撫でしかねない。両地域を25軍が「一括統治」することは作戦上の都合で仕方がないが、これからのことを勝手に決めてもらっては困る。「帰属問題に関係あるが如き用語」の使用はくれぐれも慎んでほしい。南方軍はしっかりと監督しろということだ。

先走りとは言え「マレーとスマトラの一体化」は山下をはじめとする25軍首脳共通の認識で、山下を継いだ斎藤弥平太も軍政のトップにあった渡邊渡も、ことあるごとに「一体統治」の必要を口にした。例えば、

馬来、特にスマトラは南域における産業開発の中枢として国防資源、特に石油資源開発供給、ならびにこれが為に必要な防衛手段に関し遺憾なからしめる。

馬来とスマトラは速やかに緊密なる相互依存関係を醸成し両者の一体化を図る如く施策を行うものとす。

斎藤弥平太「馬来及びスマトラ統治に関する指示」42年11月

南方軍は25軍の「マレーとスマトラ一体化」にはっきりと賛成するでも反対でもなく、半ば容認という態度だった。広瀬豊作(南方軍顧問、大蔵官僚)が両地域に通用する新しい通貨の導入、つまり二つの地域を経済的に統合する提案にも乗り気だった。しかし、中央は広瀬が42年5月に上京して説明をすると、「共通通貨案」に驚くばかりだったという。(叢書 南方軍政 p450)。

南方軍の態度が変化するのは42年7月、サイゴンからシンガポールへ「前進」する頃だ。この「前進」がその後の25軍との対立を先鋭化させていく。「ヤッペイタ」と同じ頃、南方軍参謀総長として黒田重徳がシンガポールに赴任してからその対立はますま激しくなる。

市内の大建築や大邸宅のほとんど全てはこの時すでに先住者のマレー軍や昭南市庁関係で占められており新入りの入り込む余地は残されていなかった。(略)

南方総軍司令部としてはマレー軍を自己の隷下部隊と見ているだけになおさら堪え難いことに相違なかった。

シンガポールの二人の主人、南方総軍とマレー方面軍との深刻な対立関係はまずこの辺の事情から始まったのである。

津吉英男 前掲 p109

黒田は到着早々から、マレーとスマトラ軍政の分離を宣言し、昭南市政や兵站を南方軍の直轄におこうとして25軍と衝突した。黒田が「中央の意図を体してか、あるいは自己の見解」なのか、石井にもその理由がわからなかったようだ。中央の意図、すなわち東条の差金なのかどうか分からないが、黒田は「マレーとスマトラの分離」を梃子に25軍をシンガポールからの追い出しにかかった。

それがヤッペイタに悲痛な声を上げさせる、

シンガポールを総軍の天領となさることには強いて反対でもないが、おやりになるなら軍政、兵站の細部を全部お引き受け願いたい

叢書 南方軍政p 450

25軍司令官に着任したばかりの斎藤弥平太は南方軍総司令官の寺内に訴える。7月下旬、サイゴンからシンガポールに南方軍総司令部移駐後、初めて開かれた軍司令官会議の席でのことだ。総軍はシンガポールの統治だとか、そんな細かいことにかまけるべきではないと言おうとしたのだと、石井は解釈する。その記述からも、当初、石井自身は「マレーとスマトラの一体化」を適当だと考えていたようだ。

事務室をめぐり宿舎をめぐり、自動車をめぐり、その他種々の占領地の権益や施設をめぐって睨み合いを続けてきた先住者と後住者との対立的な関係が、両者間の虚心坦懐な了解を困難にした。

総軍は戦局の新段階を説き、特にスマトラ海岸に敵の諜報部隊が潜水艦で上陸した形跡がある現状では、同島に方面軍司令部を置いて第一線の守りを固めることが必須であると主張した。

これにたいしてマレー軍はスマトラは交通通信の施設が不備であって、たとえ同島内の一部に司令部を移したとしても、現在シンガポールにいる以上能率的に全島の各部隊を指揮することは期待できないと反論して容易に総軍の要求に従おうとはしなかった。

津吉英男 前掲 p112

8月22日:黒田がマレーとスマトラの分離を正式に宣言、25軍顧問の砂田重政にもそれを伝える。

8月26日:黒田は前言翻し、25軍の両地域統治を認める。ただし司令部の移駐を提案。候補にはクアラルンプールとメダンがあがる。

8月30日:寺内は25軍が引き続き両地域を任されるならば、司令部の位置はシンガポールが適当だと石井に伝えた。「誠に誰もが承服する素直な考え方」(石井)。

9月:黒田は南方軍参謀らと25軍司令部の候補地を検討。黒田はメダンを押す。しかし、そこからマレーの統治はできないと反論される。

11月:岡本参謀副長が「この件は難問多く、なお研究中」と実質上、諦める格好を見せる。同じ頃、25軍の方から、スマトラに移駐するならば、司令部の場所はフォートデコック(ブキティンギ)でどうかと提案がある。どんな形でも、対立の解消が必要だと考えていたのか、石井はこの提案を「建設的」と評価する。

12月:北スマトラの視察から戻った南方軍総参謀副長の高橋担は両地域を一つの司令部が治めるのは不適当、マレーとスマトラの分離を促す。

43年1月:「紛争を断つため」、石井がシンガポールにおける兵站、マライの補給などを南方軍の直轄にする措置を講じる。

長いゴタゴタの末、第25軍はシンガポールにおける大半の指導権を失った。

叢書 南方軍政p 452

2月25日

総軍より第25軍司令部をスマトラ中部に移転すべく林参謀が参謀部に来れる由なり。富集団も総軍より圧迫を加えられ、その権威は日一日と失落するに至らんとす。司令官(注:斎藤弥平太)の政治力のとぼしき、その主因にして部下に人なく、しかも部下を重視するの才覚なきによることもまたその原因なるべし。恐らく彼は失脚に至らんか。

明石陽至編 渡邊渡少将軍政関係史・資料 p 52

2月26日

スマトラ移駐は果然総軍寺内大将より軍司令官に対し申し渡しあり。ここに第25軍の転出が本決まりとなれり。

同上 p 54

4月8日:斎藤は軍政に関わった部下に別れの訓示を発した。

帝国南域防衛の鎖鑰にしてまた聖戦遂行上必須の重要資源補給源を成形し実に我が南方経略の中核的要域なり。而して両地域たるや真に密接不離唇歯輔車の関係にあり、今日まで馬来スマトラ一体の軍政を施行せられたる所以亦実に茲に存す。

斎藤中将訓示 昭和18年4月8日

マレーとスマトラが分離され、自分は離別することを告げるのだが、この期に及んでも「真に密接不離唇歯輔車の関係」と一体統治の正当性を主張する。渡邊は2月20日の移動で歩兵学校付に転出し、渡邊が政治能力、指導能力のなさを疑い、失脚するだろうと予見した司令官の斎藤弥平太は飛ばされた。25軍司令部は5月1日、ブキティンギに移駐する。マレーはその後しばらく、南方軍が直轄で軍政を行った。

火付け役の黒田はスマトラとマレーの分離、25軍のシンガポールからの移駐を見届け、5月19日、14軍司令官としてフィリピンに転出する。

この分離騒動とスマトラ移駐で横断鉄道も渡邊の期待した通りすんなり着工できなかったものと思われる。スマトラの鉄道はクアラルンプールの鉄道管理総局から分離され、スマトラ軍政監部の外局として新たに設けられたスマトラ交通総局の傘下に入る。横断鉄道の工事は、ほぼ一年後、44年2月に南方軍が横断鉄道建設隊を編成し、工事が本格着工するまで、このスマトラ交通総局が管轄したものと推測される。

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*1)スマ鉄に関し、数少ない公式史料を書き残した河村は士官候補第34期(工兵)、1937 年に大本営運輸通信長官部参謀 (参謀本部第三部第九課・鉄道担当兼任)。中支那方面軍の参謀(司令官は松井石根。参謀長は塚田攻、参謀副長は武藤章)。その後、1939年関東軍司令部第三課(兵站担当)参謀(鉄道担当)。その後アンボン守備の第19軍高級参謀、第55師団参謀長(43年12月22日から44年10月14日)、第四特設司令部高級部員を経て敗戦時は仙台地区鉄道司令官。旧日本陸軍の鉄道(軍事)輸送の専門家と言われる(児嶋俊郎「戦時期満州の軍事鉄道輸送」)。

スマ鉄の建設現場を河村が視察した様子を軍属部隊の河合秀夫が「戦火の裏側で」に書いている。河合の著書は河合が編集を経る前に死亡したためなのか誤字脱字が多く、河村も「川村」大佐と書かれている。「川村」大佐が「インパールに参加」ということから河村の誤記だろう。

河合によれば、河村の現場視察は「25軍の参謀」(「第4特設司令部」か?)着任直後ということで、少なくとも44年10月後半以降だろう。河村は10月14日まで第55師団参謀長で、ビルマにいた。

オンビリン渓谷に鉄道連隊(鉄9第4大隊7中隊)と捕虜が入り、軌条を敷くのは45年3月以降のことで、河合の軍属部隊が現地人「クーリー」を使役した「突貫の最中」だったのはそれ以前のことだろう。河村の視察は44年10月以降、翌年3月までの間だったと推測できる。河合の書きぶりから、基礎工事がかなり進行していたことがわかる。河合は河村を「手厳しい参謀」と書く。

ムコムコの岩石丁場は8分通り出来上がり、突貫の最中でクーリーが(?)集して人海戦術を展開していた頃であった。こんな工事にこれだけの人間を使うとはとんでも無い話だとまず一発食らった。岩石を落とすのにダイを25箱も使ったことがあった旨を報告すると大佐はそれこそ大袈裟に天を仰いで

「ああ、これだけの火薬がインパールにあったらなあ!」と感慨無量の体であった。続けて

「こんな工事では焚き火でたくさんだ。焚き火でも岩石は立派に採掘できる。全くこんなところで火薬を無駄遣いして、けしからん話だ。」

河合秀夫 「戦火の裏側で」p63

*2)大達茂雄は福井県知事、満州国総務長官、中華民国臨時政府法制顧問、内務次官などを経て42年3月、昭南特別市の初代市長に。その後は東京都の初代長官(知事)として、公園で飼育していた象を疎開させるのではなく虐殺し戦意高揚を計った。小磯内閣の内務大臣を務め戦後はA級戦犯として逮捕されたが不起訴になり、吉田内閣の文部大臣として復活、現代に連なる歪曲した歴史教育の基礎を作った。 大達がシンガポールを去るのは43年7月なので、「ヤッペイタ」とほぼ同じ頃、シンガポールで占領行政に当たったことになる。

*3)篠原自身も南方軍と25軍の対立に図らずも巻き込まれた。最前線にいた篠原はスタッフの不注意から起きた火事のおかげで「敵前失火罪」に問われ、25軍司令部から退去を言い渡され、前線のゲマスから南方軍司令部のあったサイゴンに戻った。篠原がそれを報告したところ、

総軍司令部の第二課(情報)内に総軍から派遣した従軍特派員を第25軍が独断で退去処分にしたことは僭越である。僕をマレーに復帰させろという議論が起こった。

もちろん両者の対立感情の余波が生んだ畸型の議論ではある(後略)。

篠原滋 「一千キロの急進撃」『秘録大東亜戦史第3 改訂縮刷決定版』p 65

*4) この稿の大部分は石井の残した記述(叢書 『南方の軍政』 p449〜)に基づいている。直接過程に加わった当事者の回想は貴重な史料だが、石井自身の見方、立場が記述に微妙に投影されている点も十分に考慮する必要がある。当時、従軍記者だった津吉英男は南方軍と25軍の対立の背景や経過を生々しく書き残している(「マレー軍追放」『秘録大東亜戦史 第3改訂縮刷決定版』富士書苑 1954)。