パレンバンの捕虜

横断鉄道の建設にジャワからの捕虜(「ジャワ部隊21」)が44年5月23日ペカンバルに到着したのに続き、6月16日には同じスマトラ島内の馬来俘虜収容所第2分所(馬2)から207人の捕虜がシンガポール経由でパレンバンからペカンバルに到着した。207人の中には蘭印人捕虜も含まれていたが大半は英人捕虜だった(*1)。

これと前後するように、馬来俘虜収容所第1分所(馬1)が720人の捕虜とともにメダンから建設現場に移動してくることになっていた(「治菊丸」参照)。横断鉄道建設は佳境を迎えようとしていた。

蘭印領だったスマトラのパレンバンになぜ、英人捕虜がいたのか。そもそも、パレンバンの捕虜はどこから来たのか。

蘭印最大の油田、精油設備を持つスマトラ南部のパレンバンの獲得は日本の仕掛けた戦争の鍵を握っていた。燃料がなくては船も飛行機も鉄の塊にすぎない。41年8月、日本が中国から撤退しないことに業を煮やしたアメリカの経済制裁で石油の流れが止まると、米英蘭を相手にした戦争は時間の問題となった。油が切れる前に油を奪う、南方の油田確保は不可欠だった。戦闘による精油施設の損傷や破壊を最小にするため、開戦前に創設された陸軍落下傘部隊はシンガポールの陥落する前日、パレンバンに奇襲をかけた。この落下傘部隊は「空の神兵」と呼ばれ、戦争中から映画や歌など数々のメディアを通じて大々的に宣伝され、今日まで語り継がれている(例えば43年3月、大本營陸軍報道部監修のニュース、「勝利の記録」(*2)。しかし、パレンバンで投降した捕虜についてはほとんど知られていない)。

パレンバン侵攻と占領後の防空については第7方面軍の参謀だった枦山徹夫が1980年に発行された『鵬友』で3回に分けて書いている。枦山によれば侵攻前、日本軍は「スマトラの兵力は10,000人で要地に1大隊ぐらいずつ配備しているようで、南部スマトラの地上兵力は3,000人」と読んでいた(枦山徹夫 「パレンバンの攻略と防空(1)」『鵬友6(1)』p 62)。しかし、日本軍は英豪兵が多数いることは予想していなかった。

空挺部隊に続いてムシ川を遡上した38師団に投降した連合国軍人は約1500人ほどになる(*3)。パレンバンの防衛にあたる蘭印陸軍の兵隊、沖で撃沈された蘭軍駆逐艦エフェルセン( Hr. Ms. Evertsen)の生存者などもいたが、捕虜のほとんどは英豪人だった。英豪人捕虜の中にはシンガポールから小舟で逃げる途中、日本軍に捕まったもの、防衛のため香港から急遽送られ、沈められた3隻の小型砲船の生存者、沈没したレパルスの乗組員などの海軍兵もいた。だが大半は蘭印領パレンバンに配属された航空部隊の兵隊たちだった(*4)。

英豪軍は25軍がマレー半島を南下する41年12月、戦闘機や爆撃機をパレンバンのふたつの飛行場に移した、そこからシンガポールの防衛や日本軍の船団への攻撃を続けていた。英豪軍の拠点のひとつは、いわゆるパレンバン飛行場でP1と呼ばれたタランべトゥトゥ(Talangbetoetoe、 ケンテンKentenとも)の飛行場だ。そこにはシンガポール陥落直前の1月27日、英空母インドミタブルでホーカー・ハリケーン48機の2個飛行隊が運ばれ、第226(戦闘機)集団が展開していた。もうひとつのP2と呼ばれた飛行場はプラブムリ(Praboemoelih)にあり、豪空軍の2個飛行隊など40機のブリストル・ブレニム(ブレンハイムとも表記された)軽爆撃機、ロッキード・ハドソン軽爆撃機35機が展開していた。この飛行場の存在を日本軍は38師団が上陸するまで知らず、「秘匿飛行場」と呼ばれた。

ふたつの飛行場には航空機だけでなく燃料、爆薬や砲弾が備蓄され、対空砲火陣地が構築され、たくさんの人員が配置され、南下する25軍との間で激しい戦闘を繰り返していた。いよいよシンガポールが危うくなると、英豪航空部隊は地上設備を破壊し、飛べない飛行機を爆破し、積めるだけの人員を爆撃機に積み、ジャワへ撤退した。この撤収は2月16日ごろまでに終わったが、積み残された人員は民間人とともに車や徒歩、鉄道などで島の南端にある港町、オーストハーフェン(Oosthaven、現在のテルッべトゥンTeluk Betung)などを目指した。

スマトラからスンダ海峡を挟んで目と鼻の先のジャワ、その先のオーストラリアを目指して逃げ出したものの数は2月17日だけで5千を越す。だが沖には軽空母龍驤が待ち構えており、発艦した九六式艦戦や九七式艦攻が難民を載せた船に襲いかかった。ほとんどの船は沈められ、犠牲者の数はわからない。ジャワまでたどり着いたのは数えるほどだったようだ。沈む船から命からがらスマトラに泳ぎ着いたり、オーストハーフェンで出航できなかったものたちは38師団に投降し捕虜になった。

パレンバンの捕虜たち
1942年4月ごろ撮影?
オーストラリア戦争博物館(AWM)

38師団に投稿した兵士は最初、民間人と一緒に勾留され、それから現地人兵が「解放」され、その後、約1500人の「白人」捕虜が民間人から分けられた。「白人」捕虜850人はチュンワ(Chung Wha)の学校舎に収容され、650人はムロ(Mulo)の学校舎に収容された。ムロには英人、蘭人の将校が収容された。

ムロ収容所。East Indies Camp Archive

チュンワは「中国人学校」ともA収容所とも呼ばれ、豪人、英人の兵士が収容され、44年まで約2年間を過ごす。パレンバン近辺の飛行場や防空壕建設、港湾荷役が主な使役だった。チュンワの捕虜は44年初め、町の東部、スンガイ・ゲルン(Soengai geroen)に新たな収容所の建築を命じられ、それが完成すると、ムロ学校(B収容所)の捕虜ともどもそこに移された(*5)。

捕虜の管理は当初、38師団に任され、要員の到着を待って42年8月22日に馬来俘虜第収容所第二分所(馬2)が発足すると「軍政」の捕虜として銘々票が作られた(登録された日付は8月27日)。「南方軍馬来爪哇俘虜収容所留守名簿」によれば、馬2には65人の朝鮮人軍属が看守として配属された。この後、43年1月20日、馬2は馬1とともに南方軍の直轄となるが、10月13日には再び25軍の管轄に戻されている。この間の事情は不明。

開戦以降、1500人程度で推移したパレンバンの馬2に新たな捕虜が加わるのは43年11月10日のことだ。ジャワから送り出される捕虜の19番目のグループで「ジャワ部隊19(Java Party 19)」と呼ばれる2千人の捕虜を積んだ仏蘭西丸は11月5日出航、パレンバンまで6日の航海だった(*6)。パレンバンに到着すると1500人(蘭人千人と英人500人)はパレンバンから65キロほど離れたパンカラン・バライ(Pangkalan balai)に送られ、蘭人捕虜500人はパレンバンの南西、べトン(Betung)またはケティアウ(Ketiau)と呼ばれる地域に送られた。ふたつの現場で捕虜は飛行場の建設に使役された。

開戦直後から日本の戦争遂行に欠かせない石油の産地、パレンバンの防衛は優先課題だったが、戦局の悪化する43年になると連合軍の反抗が現実味を帯び、スマトラのもう一つの精油施設、バンカラブラタンとともに、その防衛対策に拍車がかかった。戦前からあるP1とP2のふたつの飛行場は連合軍に位置を知られており、攻撃目標になりやすい。そこで新たな飛行場を作る、その労働力として新たに2千人の捕虜は連行されたのだ。この移動は南方軍の指示で行われたと考えられる。

南方軍はパレンバンの脆さに気づいていた。きっかけはB24によるボルネオ初空襲(43年8月)であり、新型爆撃機B-29開発の知らせだった。それまで、空からの攻撃といえば、空母搭載機による攻撃を想定し、その対策に取り組んできた南方軍にとって、航続距離の格段に伸びた新爆撃機は新たな脅威であり、新たな対応を迫られた(叢書 ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦 p492)。この新型爆撃機はセイロンやオーストラリアの基地からパレンバンを直接空襲することができる(*7)。南方軍は大慌てで防衛強化に取り組まなければならなくなった。

防衛の重要さは理解され共有されていたものの、それを誰が担うのか、どの部隊が主導権を持ってことにあたるのかとなると、占領当初から25軍と航空部隊の間に確執があった。その確執のおかげなのか、パレンバン防衛の指揮は占領以来、二転三転した。直接地上兵力によって侵される危険は少ないパレンバンの脅威は空からの攻撃だった。そのため、パレンバンの防衛は占領当初から第三飛行師団(のちに第三航空軍)に任されていた。

空の守りは空戦部隊が担当するのが真っ当なのだが、スマトラ統治を任された25軍はパレンバンも島全体の防衛の中でとらえるべきだと主張し「防空兵団」の設置を訴えた。航空部隊は地上軍(25軍)に配属され、その指揮のもとで運用されるべきだと「空地一元」統帥を主張した。「空地一元」統帥は理にかなっているかもしれない。しかし、日本軍の限られた航空戦力を固定する事になり、たとえパレンバンといえども、それは現実的ではなかった。

空と地の統帥を巡る関係に変化が生まれるのは43年3月、25軍がスマトラ専任となってからだ。南方軍は25軍司令部のブキティンギ移駐を機にパレンバン防衛を25軍に任せた。パレンバン防衛司令部が新設され、三つの高射砲中隊が編成された。

本土防衛のために絶大な力とたのまれた数少ない12糎の大型高射砲は、本土を後回しにしてもという(東条)首相の要望でスマトラへ運ばれた。昔から飛行機とか高射砲、探照灯など国防献金によって作られた兵器は、献金に縁故の深い地点に置かれるのが暗黙の道義とされ一種の不文律的原則とされていた。首相の鶴の一声はこの因襲を破ってまでパレンバンへ大型高射砲を運ばせた。

鈴木正七「天下征討」『秘録大東亜戦史 第5改訂縮刷決定版』富士書苑 1954 p 561

第三航空軍は25軍の任務への「協力」を命じられる。25軍の望んだ「一元体制」だった。しかし、それは長く続かず、12月、第9飛行師団が編成され、「地」と「空」は再び分割された(*8)。

叢書 ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦 p 499

再び防空を任された第9師団は敵の爆撃機を爆撃圏内に侵入する前に捕捉、撃退することを目指す防空体制作りに新たに取り組んだ。44年5月末を目処に、製油所の500キロ圏内にレーダーを張り巡らせ、防空情報網を構築する、50キロ圏内に新しい飛行場をいくつか建設し、20キロ圏内には防空陣地を作る計画だった(叢書 『マレー蘭印の防衛』p 138)。

これら一連の工事は43年半ばから「ジャワの原住民」ロームシャ(やパレンバンに残された捕虜)を動員し、取り掛かったものの、セメントなどの資材やロームシャが揃わず、捗っていなかった(「セメントの重さ」参照)。

労働力は主としてジャワの原住民を使用したが、その労務者入手の遅延と居住施設の建設に日時を費やして工事の着手が遅れていた。資材としてはセメントの入手が思うようにいかなかったこと、さらに砂利の取得が困難であったことなどによって予定の計画が実施できなかった。

叢書 マレー蘭印の防衛 p 235

一刻の猶予もならないと見た南方軍はスマトラの精油施設の防衛を横断鉄道建設とともに「四大事業」のひとつとし、それまで第9飛行師団、第三船舶輸送隊パレンバン支部、パレンバン燃料工廠がそれぞれ別々に取り組んでいた工事を統括することを決め、自らの築城部隊である南方築城部を派遣し、南方軍臨時敷設隊を編成する。資材補給の迅速な調達を図るため、それまであった25軍の補給部門を追い出し、自前の補給部隊、南方軍野戦補給諸廠の支廠を派遣した(叢書 『マレー蘭印の防衛』 p150)。火急の防空対策に不足する労働力を補うため、捕虜はジャワからパレンバンに連行されたのだ。

防衛陣地や飛行場の工事は44年6月にひと段落終了し、捕虜のほとんどはP1などに移され、その後も飛行場の拡充や防空施設の建設に使われていく(*9)。捕虜のうち207人はめき志こ丸(1910年竣工、5785トン)でペカンバルに運ばれ、第3、第4収容所に収容され、もうひとつの火急事業である鉄道建設に振り向けられた(*10)。

捕虜をペカンバルに引率した朝鮮人軍属の張水業(小林寅雄)は同月末、メダンから収容所をあげて移動してきた馬1に207人の捕虜とともに移管、そこで横断鉄道建設に捕虜を使役した。戦後、シンガポールで開かれたイギリスの戦犯法廷で張は馬2における捕虜虐待の罪で23名とともに裁かれ、所長の蜂須賀邦彦など4名ともに処刑された。蜂須賀が着任したのは44年7月27日だったが、それ以前に起きた事件の責任が問われるなど、極めて杜撰な「裁判」だった。処刑された5名のうち、張を除く4名については馬2での罪が問われたが、張については馬2だけでなく、横断鉄道建設における捕虜虐待の罪も含まれていた(*11)。

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*1)戦後シンガポール法廷で、パレンバンの馬2における捕虜虐待が裁かれた理由のひとつは、そこに英人捕虜が多数収容されていたからだろう。シンガポール法廷が取り扱った戦争犯罪を地域別に見ると、一番多いのが泰緬、そしてアンダマンとニコバル諸島(37.27%)。シンガポールが30.22%。今日のインドネシア、当時の蘭印も10%以上を数えた。

数少ない蘭印人捕虜の一人、メウルス(Tjark Asueer Meurs)はジャワで投降し収容されていたが、43年11月、ジャワ部隊19の一員で仏蘭西丸に乗せられパレンバンに連行された。メウルスの銘々票には管轄の収容所が瓜(ジャワ)→馬2(パレンバン)→馬1(ペカンバル)と変わり、敗戦後、ペカンバルで解放されていることがわかる。

*2)大本営発表というと負け戦を勝ち戦と言いくるめ、オーウェルの「1984」を想起させるが、開戦直後の「勝利の記録」は別の意味でもおもしろい。今日まで連なる誤解がわざとなのか、連呼されている。「インドネシア」という国がすでに存在したかのような表現はともかく、ジャワ占領の16軍が蘭印全土を支配したような印象だ。今村の率いる16軍の軍門にジャワが降ったことで(未だ存在せぬ)「インドネシア」全土が陥落したようにも聞こえるが、山下の25軍によるスマトラ侵攻が完了するのは3月末のことだ。ジャワとスマトラは「インドネシア」というひとつのまとまりではなく、侵攻、占領が2つの別な軍によって行われ、ほとんど別の国のような存在だったことを忘れてはならない。

*3)38師団は開戦と共に香港を占領、その後42年1月20日、ジャワに侵攻する16軍の隷下でパレンバンを攻撃するために香港を出発した。日本軍はスマトラ進攻前にスマトラをどうするつもりだったのか、マレーやジャワのように決めてはおらず、パレンバンを含めた南部についてはジャワと一括統治する考えがあった。武藤章軍務局長が3月18日に明かすように、「スマトラは当初2地域に分割する予定なりしも作戦軍作戦地域の関係にて1地域とし、馬来の下に付する」(「史料集 南方の軍政」防衛庁防衛研究所戦史部編著 p117)と、当初はジャワ派遣軍(16軍)とマレー派遣軍(25軍)の間で島を分割統治するつもりだった。島全域を25軍の作戦地域と南方軍が決めるのは3月9日のことで、北スマトラ侵略を目指す近衛師団がシンガポールを出港した翌日のことだ(「南西方面陸軍作戦」防衛庁防衛研究所戦史部編著 p6)。38師団はこの決定にともない25軍に属することになった。

*4)25軍が迫る2月、英豪兵も民間人も難民となって島を後にした。ジャワやオーストラリアまでたどり着くものもあったが、難民船のほとんどが沈められ、スマトラに漂着したり、波間に消えた命がたくさんあった。どのくらいの数の難民がシンガポールをあとにしたのか、はっきりした数はわからないが1万3千人にのぼるという推定もある。地上軍の迫る12日から14日にかけてだけで、大小様々、44隻の船が島を後にしたが4隻を除き、全て沈没した。生存者の中にはあらかじめ設定された「脱出ルート」に沿ってパダンにたどり着いたものもいたが、バンカ島などで捕虜になったものも多い(パダンの捕虜参照)。枦山徹夫はバンカ島では「敵の将兵や民間人約2,500人」が捕虜になったと書く(「パレンバンの攻略と防空(1)」『鵬友6(1)』p 82)。

枦山によれば、パレンバン周辺では「戦闘後判明したところによれば、飛行場を守備していた部隊はオランダ軍大佐の指揮する英・蘭・豪兵約530名〜。(略)また、製油所を守備していた部隊はオランダ軍大尉以下550名〜」が捕虜になった(同p 81)。

*5)スンガイ・ゲルン(Soengai geroen)はパレンバン市内、ムシ川の南岸にあり、かつてはスタンダードオイルの精油施設があった。しかし、捕虜収容所が新たに作られたスンガイ・ゲルンは市内から2.5キロほど離れた東パレンバンにあり、川の北岸、古い港のそばだった。

*6) 占領直後5万以上いたジャワの捕虜は42年9月初旬、西丸で725人が送り出されて以来、各地に移送された。ほとんどはシンガポール経由で泰緬、そして日本本土に送られた。占領直後から捕虜の取り扱いは南方軍の頭痛の種だった。南方軍参謀長の塚田攻は軍務局長の佐藤賢了に宛てた(42年5月18日)電報でこう伝えた。

ジャワは人口過剰にして土人俘虜などの救済使用さえ困難なるに鑑み、まずジャワの処理を依頼せるも陸亜密電第481号程度の後送ならば問題とならざるにつき、当方の後送希望意見は撤回す。

泰国に俘虜収容所設置の件 p0437

塚田が言及する陸亜密電第481号の内容は不明だが、ジャワは「人口過剰にして土人俘虜などの救済使用さえ困難」な状況で、とても5万人もの捕虜を「処理」することができないと訴え、その後送を求めた。しかし、東京から提案された数はとても満足のいく数字ではなく、問題の解決にはならない、捕虜の後送希望は取り下げる。こういう意味だろう。泰緬鉄道建設を捕虜の処理策のひとつとして考えていたことも考えられる(「独断専行」参照)。

西丸の第一陣(ジャワ部隊1)から45年5月まで、27度の輸送で計4万1千人がジャワから各地に送られた。捕虜は移動を告げられる度に人数などを記録した。ジャワ部隊19というのは19度目の捕虜輸送という意味だ。

ジャワ部隊19の人数を2100人(蘭人1680人、英人419人、豪人1人)とする記述もある。ジャワ部隊19の中にはオーストハーフェンからジャワに逃げ、そこで捕虜になったものもいた。

*7)B-29の量産1号機は、昭和19(1944) 年 3 月に完成。南方軍の恐れは的中し、44年8月11日のパレンバン初空襲はセイロンから20時間かけて飛来した第58爆撃団のB-29爆撃機56機によって行われた。約20機による高度2~3千メートルからの空爆による被害は少なかったが、36機のB-29がムシ川に投下した機雷を撤去するまで、約2ヶ月ほど、油の輸送が中止された。

パレンバンの精油設備が徹底的に破壊されるのは翌年1月末のことだ。開戦時から恐れていた空母艦載機による空爆だった。24日には3隻の空母(英海軍第113機動部隊)の艦載機144機が飛来、29日には120機による攻撃でパレンバンは大炎上する。ひと月に及ぶ復旧作業にもかかわらず、精油能力は攻撃前の半分程度にしか回復しなかった(岩間敏 「戦争と石油」『石油・天然ガスレビュー』2011年5月号 p 77)。

生産設備はともかく、すでに油槽船が払底し、フィリピン陥落で日本との航路は完全に途絶えてしまい、生産した油を送る術がなくなっていた。パレンバン製油所は3月に操業を停止する。油を求めて始めた日本の戦争はこの時、終わったと言える。

*8)航空部隊と25軍の「感情的しこり」はマレー侵攻時にまで遡る根深いものだった。また、25軍と南方軍の間もギクシャクした関係だった(「さらば昭南:25軍と南方軍の確執」参照)。

きっかけはシンガポール侵攻を目指す25軍の車両と、パレンバン作戦用の燃料弾薬をマレー北部から200両の車両で輸送する第三飛行集団が狭い道で競合したことだった。 25軍と第三飛行師団間に発生した感情疎隔の原因は複雑であったが、この後方輸送の競合も有力な一因であった。

叢書 陸軍航空 作戦基盤の建設運用 p 186

25軍はパレンバン防衛が「空」の手に戻されたことも不満だったが、南方軍の直接統治にも「感情いよいよ穏やかなるざるものがあった」。

叢書 マレー蘭印の防衛 p140

南方侵攻作戦時における第25軍と第三飛行師団との、飛行部隊の直轄運用か配属かの運用論争に端を発した感情的しこりは、第三航空軍ができても、依然解けていなかった。

叢書 ビルマ蘭印航空作戦 p255

*9)地上のインフラは工事が進んだものの、空からの脅威に対応する航空機の数は絶対的に不足していた。44年2月3日〜8日に大本営防空研究団、南方軍参謀副長、第三航空軍司令などが参加して演習が行われ、その結果、パレンバン防衛に必要な戦闘機は千機以上と弾かれた。それまで、東京や南方軍は年末までに4個戦隊100機、バンカランブランダンに2個戦隊50機の増強をするつもりだったが、それではまったく焼石に水であることが誰の目にも明らかになった(叢書 マレー・蘭印の防衛 p139)。

*10) 馬2から横断鉄道建設に送られたのが「1500人のオランダ人俘虜」とする研究もある(内海愛子 『朝鮮人BC級戦犯の記録』 p 46)。しかし捕虜の側にはそれだけの人間が動かされたという記録はない。捕虜の移動の時期や人数に関しては下記のサイトなどを参照した。

NIOD

East Indies camp archive

Prisoners of war of the Japanese 1942-45

Japanse krijgsgevangenkampen

Roll of honour

Pekanbaru death railway

*11) 蜂須賀が泰緬鉄道建設で馬来俘虜収容所第5分所の所長であったこと、裁判がイギリスの管轄でシンガポールで開かれたことなどから、蜂須賀らを泰緬の戦犯裁判による刑死者として数えることがある(例えば吉川利治 『普及版 泰緬鉄道 機密文書が明かすアジア太平洋戦争』p 325)。しかし、起訴状に書かれるように、蜂須賀ら23名が問われたのはパレンバンの馬2における捕虜虐待(張については馬2と横断鉄道建設における戦争犯罪)だった(「8月15日以降」参照)。

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