パダンの穴

日本の穴の続き。

パダンに残る100以上もの「日本の穴(lubang japang)について掘り進めている。パダンの建設主体だった兵隊たちの書き残した「大阪歩兵第37連隊史下巻」を靖国神社に併設される偕行社の図書館で眺めた。パダンの「穴」の作られた背景や建設時期などがわかる。

25軍はシンガポールからスマトラのブキティンギに司令部を移し、田辺盛武司令官のもとで43年7月から「防衛作戦準備期」にはいる。それまでの「軍政浸透」や「安定確保」から敵の反攻に備える積極任務に変わった。この体制は翌年44年12月まで続く。パダンの穴掘り作業はこの期間に行われた。その中心となったのはこの辺りを任された第4師団だった。4師団は本部をパダンに置き西岸の防衛を任されたが、同時に島の北や南へ、ことあらばすぐに駆けつける援軍部隊でもあった(*1)。

兵員装備の3分の1は自動車輸送により移動できる機動能力はあったものの、機動を生かすには道路の整備が欠かせない。師団長の馬場中将は騎兵科の出身で、騎兵的機動性に基づく戦術思想が日常の訓練や陣地の構築や編成にも影響した(「大阪歩兵第37連隊史下巻」p 316)。

4師団参謀長の小栗軍二(大佐)の回想。

防御配備は第25軍の指導により後退配備をとった。主な防禦陣地はパダンの東方地域に構築し、パダン港と飛行場はなるべく永く敵の利用を妨害するようにした。

防御要領において、馬場師団長は機動防御を実施するには、陣地の構築よりも機動に適するようにまず交通網を整備したいとの意見であった。しかし田辺軍司令官は当初は隠蔽した地域で逐次抵抗を行い、その間、機を見て反撃を加えるのであるから、まず、陣地を堅固に構築すべきであるとして、そのように指導した。軍司令官と師団長の意見が合わないので、参謀長として両者の調整に苦慮した。

セメントは十分に使用できたので、海岸線に戦車防禦を主としたコンクリートの障壁を作った。これは住民の勤労奉仕によるもので、約5キロにわたるものであった。

師団長は射界を重視したが、軍は短小射界で満足すべきであるとしてもっぱら隠蔽を力説した。敵がスマトラ北西域に上陸した場合、主力を持ってメダン方面に機動することを考えて道路偵察を行った。また軍の指導によってこの方面の兵要地誌の研究整備を行なった。

叢書 マレー蘭印の防衛p 233

馬場の戦法はあくまでも水際壊滅だった。清水道太郎の所属した歩兵37連隊第10中隊(第3大隊)は44年3月初めから9月まで、パリアマンに駐屯、陣地構築に取り組んだが、まず取り掛かったのは水際陣地だった。清水はパリアマンでの築城を詳しく書き記す。もちろん細部の違いはあるだろうが、パダンの築城と通づる部分もあるだろう。パリアマンでは海岸陣地に椰子の生木を使い、要部に「コンクリート製の掩蓋」を配置し、陣地の間をつなぐ連絡壕が、民家の軒先や床下まで、蛇の様に掘られた。海岸から1、2キロの丘陵地帯に拠点陣地を作るのはその後だ(*2)。

4師団のなかでパダンとパリアマン地区を任されたのは歩兵37連隊だ。その範囲はおおむねニアス島(含まず)以南、ムコムコ(パダンの南方約200キロ)あたりまで、かなり広いエリアだった。連隊の兵力は第二大隊欠(ニコバル島派遣)で配属部隊として歩兵第8連隊から1大隊、野砲第4連隊の1大隊(第二大隊か?)、及び衛生隊。自動貨車84両、乗用車12両、側車1車両が配備されていた。ムコムコの後背には「スマトラの穀倉地帯」と言われた「カイワロ」農園があったので、連隊直轄の第3中隊がムコムコに特別配置された。

パダンの防衛を担当した歩兵37連隊に臨時動員が下命されたのは43年9月。10月4日にスマトラに向け大阪港を三笠丸とシカゴ丸(第一大隊と速射砲中隊など)の二隻で出港した。シカゴ丸は10月15日、台中北方60キロの後竜沖で敵潜水艦の攻撃を受け沈没。乗組員は全員死亡、乗っていた兵も20数名が犠牲になった。生存者は駆逐艦に救助され、基隆港に上陸。その後鉄道や他の船で高雄に集結し、輸送船団に分乗し、無事だった三笠丸と出港した。10月28日、シンガポール到着、30日出航。11月1日にスマトラのパレンバンに上陸した。

スマトラ上陸後、第10中隊はムアラテボで二ヶ月ほど過ごしたあと、44年1月2日、パダンに移駐し、パリアマンに移るまでの二ヶ月間、防衛陣地作りをやった。

パダンが防衛の拠点と見なされた理由はいくつかある。スマトラ西岸最大の都会であり交通の要所だったこと(*3)。司令部の置かれたブキティンギとも近い。パダンには三つの重要施設があった。町の東北にある飛行場、南方約12キロのパダン港(テルックバユール、エマヘーフン)は西岸最大の良港だった。そして東南20キロには「当時南方地域に唯一と言われたインダルンのセメント工場がある(「セメントの重さ」参照。

まさに「海陸の要衝」だった(「大阪歩兵第37連隊史下巻」p 317)。

第10中隊はまず港を俯瞰する灯台岬に砲兵陣地を作った。そして町から南方へ、パイナンへの道路脇には対機甲陣地。パダン岬に水際戦闘陣地。飛行場に補助滑走路、誘導路を作るため、ブキティンギ街道を海岸寄りに迂回する道路工事では現場のバラックに寝泊まりしての突貫作業だった(清水道之助 「大阪歩兵第37連隊史下巻」p 292)。港と飛行場の周りから工事が始まった。飛行場とブキティンギ街道、浜の間、現在は住宅街になる一帯にはトーチカや穴が多数、残っている。このほとんどは44年前半、「水際壊滅」の時期に作られたと推定できる(p 317)。

港には44年春以降、敵潜水艦が侵入し、浮上して石油タンクなどに砲撃を加えるようになっていた。連隊の砲中隊が港を見下ろす突角半島の丘陵部に砲2門を備え付け、もっぱら高射砲の代用にした。半島山頂にコンクリートで基礎を固め、360度回転の木製架座の上に砲を据えた。常時一個小隊の交代勤務で警備監視にあたった。この付近には機関銃小隊も配備。港の石油タンクが並ぶ付近には海軍が高角機関砲2門を設置したが、海軍はごく少数の部隊がいるだけ。常駐したのは駆潜艇が一隻だけで、それも11月に潜水艦の攻撃で沈没した。

第10中隊は、港と飛行場を地上軍の攻撃から守るため、数々の「穴」を掘った。セメント工場は上陸軍による攻撃、占領よりも、空爆で生産機能が破壊されることを恐れ、対空部隊が配置された(*4)。

小栗の証言にある「戦車防禦を主としたコンクリートの障壁」は『大阪歩兵第37連隊史下巻』でも言及されている。「パダンの西海岸に約4キロに亘り構築された「ペトン」の対戦車防壁も馬場師団長の水際壊滅の思想による発想と考えられる」(p 318)。「ペトン」が「ベトン」(beton=コンクリート製の)の訛りと考えれば、小栗は長さが5キロだったというが、同じもののことだろう。4〜5キロという距離はタビン飛行場からパダン山のふもとの河口までの距離と一致する。飛行場は最重要防衛地点のひとつだったから、対戦車防壁が作られたのはこのあたりだ(*5)。馬場の「水際壊滅」を反映し、高さ3メートルほど、厚さが1メートル近いコンクリート作りの壁が作られた。そのほとんどは戦後、撤去され基礎も砂に埋もれてしまったが、数カ所、今でも痕跡が残っている。

ブキティンギへの街道沿い、飛行場の向かいの自動車ディーラーの裏地には対戦車戦用ではないかと思われる遺構がある。かなり大きな壁を一端に持つ半円形の陣地で、壁の先1メートルほどのところに、もう一枚コの字型の壁がある。

2枚の壁は海側を睨む

建設の時期は不明だが、37連隊の記述は、これが馬場の「水際壊滅の思想」に基づくものだとする。ならば、建設されたのは44年前半のことだろう。馬場の唱えた「水際壊滅」に変更を迫ったのは南方諸島における戦闘の悲惨な経験だった。「水際壊滅」で挑んだものの、敵はとても壊滅できなかった。それは無理だ。できない。現実的ではないという理解が広がり、防衛戦法の見直しに繋がった。「水際壊滅」の変更がせまられ、その関連なのか、馬場は7月ごろ師団長を木村松次郎(中将)と交代した。

44年7月あたり以降、スマトラでは「敵の上陸まで極力兵力を温存して、上陸後の敵を分散、各個撃破に誘導する戦法」に移行、防衛陣地作りも海岸から離れた場所で、戦力を温存し、上陸した敵を叩くため「縦深な」陣地作りに変わっていった(「大阪歩兵第37連隊史下巻」p 318)。パダンでも浜から離れた場所にある「穴」は、師団の方針が変わった44年後半に作られたと思われる(*5)。

この戦法が、25軍の主張した「後退配備」なのかわからないが、多分これに近いものだろう。パダンでも海岸から離れた場所にある「穴」、例えば地図に「九二高地」と描かれるグヌアン・パンギランgunuang pangilunなどは44年後半の建設だと考えられる。小さな丘全体を要塞と見立てたかのように、いくつか地上に出る穴があり、それを蛇のように縦深な連絡路が地下で結んでいる。やはり何キロか内陸のルブ・ミントゥルン(Lubuk Minturun)にある背の高い「穴」は兵站や食糧の備蓄用と思われるが、やはり戦法変更以後、44年後半の建築だろう。

九二高地?パンギランの丘
市街東の丘にある塹壕

小栗の「主な防禦陣地はパダンの東方地域に構築し、パダン港と飛行場はなるべく永く敵の利用を妨害するようにした」という発言は、防衛戦法の変更以降のことだろう。飛行場や港が敵の手に落ちるのは避けられない、時間の問題かもしれない、と認めた上で、それでも「なるべく永く敵の利用を妨害する」のが目的だった。

小栗が参謀長を務めた4師団は45年1月、1月14日、主力がタイへ移動する。その後、パダンなど中部スマトラの防衛に残されるはずだった歩兵37連隊などもわずか3週間後の2月7日、タイへ移動する。南方軍が策定した「昭和20年度下半期作戦計画」に基づく移動だった。シンガポールやマレー、タイやインドシナ半島に防衛の重点が移り、スマトラは主戦場となる別な場所に敵を到達させないように、なるべく時間をかせぎ、その兵力を削ぐことが求められる「持久地帯」と見なされた。

確保地域はインドシナ、タイ、馬来。その外周にあるビルマ南部、スマトラ 、ジャワ、ボルネオはそれら確保地域を防衛するための「持久地帯」とみなされた。

叢書 『南西防衛』p378

「持久地帯」となり人手も減った。4師団の移駐後、パダンなど西海岸の防衛は独立混成第25旅団があたることになり、その工兵隊が陣地構築を続けた。その略歴を見ると編成が43年10月、11月昭南経由でスマトラ到着。最初はシボルガに入るが、すぐにニアスで陣地構築。44年の4月からシボルガに戻る。ニアスやシボルガに残る「日本の穴」はほとんどこの部隊が構築したものだろう。翌45年3月、第二小隊をシボルガに残し、指揮班と第一小隊が第4師団の穴埋めでパダンに入り、敗戦まで細々と陣地作りを続けた。海岸から少し離れた場所に見つかる塹壕やトーチカはこのころ、この部隊が作ったものだろう。海岸から始まった陣地構築はだんだん内陸に入っていく。パダンには未完成と思われる「穴」も残っている。

これらの「穴」作りに実際に駆り出されたのは誰だったのか。小栗は「住民の勤労奉仕」だと言う。ゴトンロヨン、お互い様の助け合いを悪用したものだったのかもしれない。歩兵37連隊の清水はパリアマンの陣地構築に義勇軍が「協力」したと書く。上掲のパリアマン地図には「義勇軍中隊」の宿舎が書きこまれている。「25軍スマトラ戦史」によれば「3月初めに義勇軍30個中隊の編成を終わり夫々各兵団に配属せり」。30個中隊といえば、6000〜7000人程度か。第10中隊がパリアマンに移る頃、編成を終えたばかりの義勇軍中隊がひとつ(約200〜250人ほど?)、無償の奴隷として提供されたのだろう。ブキの「穴」作りでも、その建築を任されたという本庄によれば、工事の主力は「義勇軍」だった。

兵力の不足を補うため予て義勇軍幹部を要請中なりしが昭和19年3月初めて義勇軍30個中隊の編成を終わり夫々各兵団に配属せり。

25軍スマトラ戦史 p21

清水は「義勇軍への入隊は厳しい選考に合格しなければならず、若い現地住民の羨望の的であった。特にその将校は名門出のインテリらしかった」と書くが本当のところはどうだったのだろうか。この史料からだけではわからない(「パリアマン 海辺の分屯地」歩37会編集『大阪歩兵第37連隊史下巻 』p290)

日本の穴

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*1)島の北部に近衛第2師団、西部に第4師団。25と26独立旅団が北西部、南部などに配置された。第4師団には機動部隊としての任務もあり、どこかが攻撃されたらすかさず援護に出かけることになっていた。

*2)師団と25軍はトーチカや塹壕の銃口の大きさ、デザインをめぐってもの意見が対立した。小栗によれば馬場師団長は射界を重視し、銃口を大きくし、銃の撃てる範囲を広げようとした。しかし、25軍は銃口を狭くする「短小射界」を主張。こちらから撃てる範囲は狭まるものの、敵の弾に当たる確率は減る。防御を重視する考え方だった。第10中隊の清水がパリアマンで水際に作った陣地は「短射界」だった。銃口をめぐる対立がそれ(44年3月ごろ)までに解消され、25軍の主張した防御重視の「短小射界」に落ち着いた可能性がある。

「短小射界」か?

*3)パダンで連隊(1ケ大隊欠)は旧オランダ軍兵舎に駐留した。当時のパダンの描写。

営門もあれば隊内広場もある。付近には立派な病院もあり、街路は大きな並木道でメインはほとんどアスファルト舗装。道路以外は芝生か広場でところどころの草地では、水牛や山羊の放し飼いでのんびりした町。パダンの中心街は駐屯地から若干離れているが、ホテル、レストラン、映画館、小売店、飲食店、また軍特有の慰安所もあった。中心部から近いところに第4師団司令部もあった。

パダン市には何階建てかの州政庁があった。スマトラ島は緒戦の進駐以来全島の軍政が組織化され浸透していた。連隊は市の東部にあるこれもオランダ軍の兵舎らしいかなり立派な建物に入った。師団司令部もこの都市に置かれていたので、軍人、軍属や民間人の邦人がかなり見受けられた。道路も広く、パサールも大きかった。市内には偕行社のある白木屋、邦人クラブの青海寮。高等官宿舎に使われた大和ホテルなどがあった。若い兵隊に人気のあるおばさんがいるスタンド千歳など邦人の経営の飲食店もいくつかあった。やはり芝生の青々とした広場や街路樹の整備された大通りが所々にあり、オランダ人が計画、建設したらしい欧風の趣があった。

州庁の北に映画館「東亜館」があった。

清水道之助 「4パダン 欧風の州都」『大阪歩兵第37連隊史下巻』 p 292

*4)インダルンや飛行場の防空には主に野砲兵4連隊が配備された。野砲兵4連隊の戦歴などからすると、インダルンの防衛はもっぱら空を向いていたが、地上軍の侵略に備えた「日本の穴」もセメント工場の周りに多数、残っている。

44年4月20日 第2大隊、インダルンに移駐。一部はセメント工場の防衛に、主力は歩兵37連隊の指揮下で海岸地区の防衛に。

6月9日 連隊主力(1、2、9C欠)は防空のためインダルンに移駐。第2大隊(第4中隊欠)は連隊長の指揮下に入る。第4中隊は歩兵37連隊の指揮下でタビン飛行場の防空に。

8月24日 パダン空襲。9時50分ごろ、艦上戦闘機27機、さらに10時10分、艦上爆撃機20機が飛来、セメント工場や船舶、港湾施設に被害が出た。この空襲による死者は約100名。対潜哨戒のため、タビン飛行場に駐機していた一式戦2機が迎撃したが効果がなかった。野砲兵4連隊の第3大隊が対空戦闘。

セメント工場は500ポンド爆弾数十発を被弾、工場設備が破壊され、人員にも大きな被害が出た。

原料採炭場、爆破崩壊。

スラリータンク 2基弾片により破壊。スラリー流出。

回転窯 2基直撃弾により切断。1基送込み部分小破。

クリンカホール 3棟大破。

セメントサイロ 1基大破。

製品送り出し場 ケーブル切断

工場内原料運搬装置 全面的に破損

給水管送電線等 切断

邦人死者 社員2名

現地人死傷者 、死者47名 負傷者70余名

日本セメント株式会社社史編纂委員会編『70年史 本編』日本セメント 1955 p 229

この空襲で、セメント工場の回転窯は45年初頭まで運転することができ図、生産の再開は45年5月ごろだった(日本セメント株式会社社史編纂委員会編『70年史 本編』p 234)。

野砲兵4連隊が45年初めに第4師団とともにタイに移駐した後、どのような防衛体制だったのか不明。

45年4月16日 早朝、10数機がセメント工場および港湾を空爆。この時も船舶や港湾施設、そしてセメント工場が空爆にさらされた。航空機による空襲のほか、沖合いに浮上した潜水艦からの艦砲射撃もあった。ちょうどその時パダンに出張していた岩井健は次のように書く。45年5月のことだ。

セメント工場近くまでくると、突然砲声が轟き、あたりは俄かに騒然となった。港外に浮上した敵潜水艦が、セメント工場を目標に砲撃を開始したのだった。思いがけないことだった。セメント工場防衛の高射砲隊は零距離射撃をするつもりで砲口を下げ、会場の敵潜目掛けて砲撃を始めたが、思うにまかせず、弾着修正中、相手は海中に没しその目標は完全に消えた。セメント工場にとりたてた被害がなかったが、意表をついた敵の攻撃に野砲ならぬ高射砲隊も大いにあわてたようであった。

岩井 p 195

*5)師団長が交代し、戦法が変わるころ、死守すべき対象のひとつ、タビン飛行場も歩兵37連隊が進駐した当時と比べると様変わりしていた。44年初頭には海軍の爆撃機が20数機常駐していたが、6月ごろまでに全て中部太平洋方面に移動してしまった。その後は「小型連絡機が1、2機、時折」発着するのみになってしまった(「大阪歩兵第37連隊史下巻」p 317)。

セメント工場や港が空襲されたという記述はあるが、飛行場の空襲は記録されていない。実際に攻撃があったのかどうか不明だが、英軍が占領後の使用を考えたのか、それとも空襲に値するだけの航空戦力が残っていないことを知っていたのか、空襲されなかったのかもしれない。

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