セメントの重さ

横断鉄道の目的としてセメント輸送をあげる史料がいくつかある(*1)。「叢書 ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦」には次のように書かれている。

第25軍はスマトラのセメント原料採取搬送のため、スマトラ横断鉄道の敷設を企図し、その路線偵察を南方軍に申請した。第三航空軍は南方軍命令に基づき、第83独立飛行隊にその実施を命じた。

p250

やはり戦後編纂された「叢書 南西方面陸軍作戦」にはこう書かれている。

軍政方面における意義はパダンのセメント及びロガス炭鉱の粘結炭を昭南地区に輸送するにあり。(略)防衛工事、特に築城に必要欠くべからざるパダンのセメントを本横断鉄道により昭南に輸送するため方面軍としては1日も早くこれが開道することを希望せり。

p1034

パダンのセメントについて検索するとネットのトップには国内プロリーグに参加するサッカーチームが出てくる。最近ではそちらの方で知名度が高いようだが、その親会社が国内最古のセメント生産会社セメン・パダンだ。西スマトラの州都、百万都市を代表する企業で、その歴史は1910年に植民政府の手で創設された官営工場に遡る。近在の石灰石や粘土などの原料にサワルントゥ(オンビリン)の石炭を使う殖産興業で、戦前には蘭印市場の30%近くを占めた。19世紀後半、石炭と鉄道を核として進められた官営開発の一部だった。

「叢書ビルマ蘭印方面 第三航空軍の作戦」も戦後、記憶にたどってまとめられた記録だが、ここで言及するのは42年11月、南方軍から依頼された偵察飛行のことだ(「別ルート?」参照)。測量もまだ始まっておらず、路線を決める参考資料にするための撮影依頼だった。時期を混同した可能性があるが、偵察飛行が依頼された頃ではなかったとしても、セメント輸送が横断鉄道の使命として考えられた、語られた時期があったのかもしれない。主目的は運炭だったが、パダンのセメントは横断鉄道建設の後押しをしたかもしれない。

インダルン地区にあるセメント工場が特に重視されるのは、44年に南方軍が25軍軍政監部から引き継ぎ、直営工事として鉄道連隊を建設に取り組む頃だ。セメントそのものが格段に重要さを増していた。南方軍の描く防衛戦略、築城、そして総力を注ぎ込む4大事業のどれをとってもセメントが必要で、それも大量に要求されたが、南方地域でセメント生産を続けていたのは当時、パダンだけになっていた。喉から手が出るほどほしいセメントの輸送路として横断鉄道に執着した南方軍がジャワ人ロームシャ割り当てなどで匙加減に手を加えたことは十分可能性がある(*2)。

43年4月から12月までに実際に配達されたセメント
南方物資一貫輸送示達と実績比較表

日本軍の占領開始当時、セメント工場は仏印のハイフォン、タイのバンコク、そしてパダンにあるだけだったが、セメントは南方の各軍にそれなりに行き渡っていた。ジャワへは42年6月以降、石炭とともにスマトラから毎月5000トンが約束された。このうちどのくらいが実際に配送されたのかわからない。ジャワからの見返り品、砂糖や塩などは予定通りスマトラには届いていなかったことが25軍の軍政月報に記録されている。ジャワへ約束した石炭やセメントもこれだけの量は届いていなかっただろう(*3)。

翌43年3月から12月までについては実際の輸送量が残っている(南方物資一貫輸送示達と実績比較表 43年度第一から第三四半期)。この9ヶ月にジャワへは送ろうとしたのは9200トン。実数は6625トン。毎月5000トンからは程遠い。昭南へは7700トンが約束されたが、実際は5920トン送られただけで軒並み予定を下回った。セメントの需要が高まる頃、南方の輸送路は寸断され、セメントの輸送はままならなくなっていた。そして、連合国軍はセメント工場を狙い撃ちした。下記は44年3月、総務部長会議での産業部長の言葉だ。南方に残るセメント工場はパダンだけになった(*4)。

セメントの需給は極めて逼迫状態にあり、さらに19年度においては仏印海防および、泰セメント両工場は空襲被害により総軍地域への交流は減少すべく、現地自給の急速完成はますます緊要となれり

総務部長会議席上産業部長説明要旨 南方軍政関係資料 p0399


インダルンのセメント工場
日本セメント株式会社「70年史」p232

パダンのセメント工場は42年に25軍が進駐してから、やはり深川の官営工場を出自に持つ浅野セメントが経営にあたった。生産は42年7月に7300トン(日産235トン)、8月には10850トン(350トン)に回復。もともと日産690トンの能力があるが、貯蔵設備が限られ動力の一部が紛失。最高の日産実績はこれまでのところ450トンと書かれている。しかし、すでにこの頃から「船舶の不足」で、ストックは2万4千トンあった(42年9月の戦時月報 p0737)。

タイと仏印の工場が空襲でやられ、セメントの生産がパダンだけになってしまうと、不足を補うため各地で「簡易セメント」や「代用セメント」の製造や使用が呼びかけられ、その一方パダンの生産をあげるため発電所が新たに作られ、包装用の樽や紙袋が手配され、44年度には最低でも20万トンの生産を見込んでいた。ほぼ、戦前の生産能力だ。南方唯一の生産拠点をフル稼働させるつもりだった。

相対的価値が大きく上がったパダンのセメントは増産体制が整っても、大きなアキレス腱を抱えていた。輸送だ。スマトラ西海岸の最大の難点は輸送だ。パダン港からはジャワへもシンガポールへもインド洋を西海岸沿いに島の南辺をぐるりとまわなければならない。平時でも時間がかかり(横断鉄道構想初期にはこの利点を強調したものもある)、この時期になると連合国軍の潜水艦が水域を支配していた。占領直後、まだ比較的船のあった時代にも約束した量のセメントが配達できなかった。前年4月から12月までの9ヶ月、パダンから実際に出荷できたのは14645トンだけ。約束の22600トンには遠く及ばない。44年度にはその10倍以上の生産を予定し、生産体制も整えた。しかし、どこへどれだけ送るつもりだったのか。実際には20万トンを輸送できるとは思っていなかったようで、44年度の「相互交流計画基礎案」を見ると、スマトラから約束するセメントは全体で4万5千トンに過ぎない。マレーに2万トン、ジャワに2万トン、ビルマに4千トン、北ボルネオに千トンだ。つまり、パダンでは20万トン作る体制だったが、出荷の予定はその4分の1にも満たなかった。それでも前年の実績の倍であり、どうやって輸送するつもりだったのか。

44年度にスマトラから積み出される約束のセメント
相互交流計画基礎案

南方軍、そしてそれを引き継いだ第7方面軍は横断鉄道でどん詰まりの打開を狙ったのかもしれない。制海権をなくし、船に事欠く状況で、マレーやジャワなどへセメントを安全に送り出す輸送路として、横断鉄道に期待したのではないか。20万トンはともかく、前年を上回る4万5千トンをインド洋に船では送れない。

鉄道がロガスの石炭を運ぶだけに作られたとしたら、支線が貫通した45年2月、そこで工事をやめることもできた。掘り出した石炭が曲がりなりにもペカンバルに送られるようになった時点で、ロガスの粘結炭を運ぶ輸送路としての目的は達成した。そこで止めることは考えなかったのか。しかしその後、炭鉱支線の分岐点であるペタイからムアロまでの「本線」の工事に拍車がかけられた。ペカンバルがシンガポールへの通過点、鉄道から船への乗り換え地点であり、本当の目的地ではなかったように、もう一方のムアロもそこを目指したのはその向こうにパダンがあったからだ。

軍政が始まった当時、夢を見ていた時のことではない。「理想の建設」や「戦後経営の便否」ではなく、南方占領地の「戦力化」が叫ばれる(南方軍政関係資料1 p0116)ころの話だ。ムアロまで約90キロ区間には岩山がそそり立つオンビリン渓谷という難関が立ちはだかる。ますます厳しくなる戦局、捕虜やロームシャがバタバタ倒れていく状況、食料や資材や機材の補給が難しくなる中で、だ。泰緬とは違いこの鉄道は直接的な「作戦」鉄道ではない。これで兵士や兵站を作戦のために輸送する鉄道ではない。だからペカンバルへの炭送の道筋がついた時点で、工事をやめることもできた。

第7方面軍がそれを検討したのかどうかわからないが、支線が開通するのと同じ頃、4大事業として南方軍から引き継いだ事業のうち二つについて中止を命令した。ブルネイの精油、送油施設作りは1月に、ビンタン島のアルミナ工場は4月に中止命令が出た。ムアロの石炭を運ぶことだけが理由なら、横断鉄道もそこでやめてもよかったはずだが、それを考えた形跡はない。その理由はセメントだったのではないか。

そこから、しゃにむにパダンへ既設の鉄路が繋がるムアロを目指していく。難所の建築工事はさらに新たな犠牲を出して続けられる。捕虜がムアロとペタイに配備され、残りの区間の両側から工事に取り掛かるのは45年3月のことだ。

もちろんムアロの先にはオンビリンの石炭もあった(*5)。もともと横断鉄道はそれを東海岸に運び出すため、だった。しかし、南方軍が乗り出した頃、横断鉄道でマラッカ海峡へ積み出したかったのは「パダンのセメント」だろう。45年初めに炭鉱支線が開通した頃、パダンのセメントは必要不可欠でありながらなかなか手に入らない希少物資だった。相対的な価値はオンビリンの石炭よりもずっと高かったはずだ。

横断鉄道が炭鉱支線開通後も全線開通を目指さなければならなかったのは、パダンのセメントを運ぶためだ(*6)。

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*1) 南方軍交通部のまとめた「南方鉄道整備計画」(42年10月30日付け)には次のように書かれている。

スマトラ西部鉄道局管内ムアロよりパカンバルに至る間、概ね200キロの新設、現在に於けるオンビリン炭鉱の出炭、パダンのセメントの多量は凡てパダンよりの船舶により搬出しうるのみにして馬来方面に対する船舶輸送長距離なる不利を緩和するため

昭和17年下半期及昭和18年度南方鉄道整備計画 p 2286 

当初運ぼうとした石炭はオンビリンのものであり、そしてこの時期を象徴するように、鉄道の目的は輸送時間の短縮が主眼だった。25軍の旬報に横断鉄道構想が初めて記載されるのは9月であり、10月末の時点で南方軍の交通部もこの路線に前向きだったことがわかる。

*2) 鉄鋼と同列で防衛資材の重要物資として、セメントの取引も南方軍が仕切っていた。44年3月の南方軍総務部長会議では「現在資材中最も不足を告げつつあるはセメント」(p0362)と書かれているが、逼迫具合も大きな地域差があった。膝下のパダン、ブキティンギの地下壕建設などではこの時期もセメントをふんだんに使うことができた。バダンの防衛を任された第4師団の小栗軍二。

セメントは十分に使用できたので、海岸線に戦車防禦を首都したコンクリートの障壁を作った。これは住民の勤労奉仕によるもので、約5キロにわたるものであった。

叢書 マレー蘭印の防衛p 233

西の最前線になるかもしれないスマトラ北部では陣地構築が急ピッチで勧められ、アチェなどへはまだ小型木造船で沿岸を伝いながらセメントが運ばれた。量はあったようだ。防衛を担当する近衛第二師団の岡田重美。

築城については要部をコンクリートで固めた。砲兵の掩体もコンクリートを使用した。コンクリートはパダンから木造船で輸送したので、比較的北部の陣地構築には豊富に使用できた。

叢書 マレー蘭印の防衛p 232

しかし同じ島内とはいえ、パレンバンでは43年中頃セメントが不足した。南方軍の約束した1100トンが到着するのは43年後半のことだ。

労働力は主としてジャワの原住民を使用したが、その労務者入手の遅延と居住施設の建設に日時を費やして工事の着手が遅れていた。資材としてはセメントの入手が思うようにいかなかったこと、さらに砂利の取得が困難であったことなどによって予定の計画が実施できなかった。

叢書マレー蘭印の防衛p 235

*3) ジャワでは戦前スマトラやボルネオからの石炭が使われた。ジャワの石炭不足は日本軍が進駐し、異なる軍政が敷かれ、それまでの交易が制限されたおかげで作り出されたものだ。ジャワのバヤ鉄道は「現地自活」の手前、ジャワ島内で石炭の自給を目指そうとした結果考えつかれたものだ。スマトラからの石炭が予定通り届いていなかった。もしくは届いていても、それでは需要を賄うことができなかった。計画そのものが杜撰だった証だろう。それまでに存在した交易圏を無視し、蘭印を分割し、物資の計画的な移動を行おうとしたことが原因だ。目論見や計画はともかく、それを実行に移すだけの輸送力を準備していなかったこと、輸送力の消滅が石炭の需給を破壊した最大の原因だ。

スマトラからジャワ向けの石炭移出が決まるのは軍政施行後の42年5月、サイゴンで開かれた物動主任者会議でのことだ。マレーとスマトラを統治する25軍とジャワの16軍は物資の融通を調整した結果、スマトラからはジャワへ毎月5千トンの石炭、同量のセメントが送られることが決まった(戦時月報 42年6月)。石炭もセメントも積み出し港はパダンだ。実際にどのくらいの量が運ばれたのかわからない。サイゴンの会合でジャワからは石炭とセメントの見返りとして、パレンバンに米5千トン、雑穀(マレーと合わせて2千トン)、砂糖(同1万トン)や塩(同1万トン)が送られることになっていたが、6月以降の「戦時月報」には、なかなか予定したように物資が到着しないことが書かれている。おそらく、セメントも石炭も同じように約束の量を下回ったことだろう。どのくらいの量が送られたのかはっきりとしないが、パダンとジャワの間に船舶の往来があり、例えば、セメントや石炭を送った帰りの船に、ジャワからロームシャを積み込むことは可能だっただろう。

*4)スマトラのセメント工場も44年8月以降、連合軍航空機による空襲を受けた。最初は8月24日、英軍艦載機20数機が来襲、500ポンド爆弾数十発が工場設備を破壊し、人員にも大きな被害が出た。

原料採炭場、爆破崩壊。

スラリータンク 2基弾片により破壊。スラリー流出。

回転窯 2基直撃弾により切断。1基送込み部分小破。

クリンカホール 3棟大破。

セメントサイロ 1基大破。

製品送り出し場 ケーブル切断

工場内原料運搬装置 全面的に破損

給水管送電線等 切断

邦人死者 社員2名

現地人死傷者 、死者47名 負傷者70余名

日本セメント株式会社社史編纂委員会編『70年史 本編』日本セメント 1955 p 229

セメントが喉から手が出るほど必要とする現地軍の支援もあったが、回転窯は45年初頭まで運転することができなかった。復旧用の資材や人員の確保も思うように進まず、結局、生産が再開したのは45年5月ごろだった(日本セメント株式会社社史編纂委員会編『70年史 本編』p 234)。

45年4月16日の早朝にも10数機による空爆があった。二度とも標的は船舶や港湾施設、そしてセメント工場だった。連合国軍の狙いは南方唯一のセメント生産拠点、そして輸送施設だった。

空襲のほか、沖合いに浮上した潜水艦からの艦砲射撃もあった。ちょうどその時パダンに出張していた岩井健は次のように書く。45年5月のことだ。

セメント工場近くまでくると、突然砲声が轟き、あたりは俄かに騒然となった。港外に浮上した敵潜水艦が、セメント工場を目標に砲撃を開始したのだった。思いがけないことだった。セメント工場防衛の高射砲隊は零距離射撃をするつもりで砲口を下げ、会場の敵潜目掛けて砲撃を始めたが、思うにまかせず、弾着修正中、相手は海中に没しその目標は完全に消えた。セメント工場にとりたてた被害がなかったが、意表をついた敵の攻撃に野砲ならぬ高射砲隊も大いにあわてたようであった。

岩井 p 195

*5)オンビリンの石炭は内地へ送るほどの「重要物資」ではなかったが、南方圏内の需要を賄う重要な役割があった(「石炭の項」参照)。戦前はもっぱらシンガポール向けだったが、開戦後は主にジャワ向けだった。

*6)昭南防衛に取り組む第7方面軍もセメントがなければお手上げで、45年5月14日(岡方作命甲第159号)にはパダンから「セメ」号を緊急輸送する指令を出した。実際に、どれだけの「セメ」号が輸送されたのかは不明だが、合計1700トンをペカンバルまで25軍の自動車3ケ中隊が輸送、そこからはありとあらゆる船を動員してシンガポールに送る計画だった。なお、この「セメ」号輸送計画では4000トンがパダンからジャカルタへ送ることも書かれている。このうちどのくらいの「セメ」号がジャワまで届いたのか。

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