日本の穴

穴があったら入りたい。

穴を掘らせた張本人の国ではその存在すら知られず、「インドネシア」の歴史を語る専門家のあいだでも話題に上ることがほとんどない。戦時中に日本軍が掘ったり構築した防衛用の施設のことを、現地の人間はまとめて「日本の穴(lubang japang)」と呼ぶ。

「穴」はスマトラ各地に残っており、たぶん最も有名なのは25軍が司令部を置いたブキティンギにあるものだろう。信州松代の象山地下壕よりはずっと小ぶりだが、それでも司令部の500人、軍政監部の要員を含めて計1000人を長期間、収容するつもりで作られたから、半端じゃない大きさだ(*1)。

海岸の百万都市パダンにはこれほど巨大な「穴」はないが、「日本の穴」がいたるところに残っている。その数はざっと100を越すとも言われる。日本軍統治時代の遺構を調べる郷土史研究会の推定だ。研究会はその全容解明、リスト化に取り組み、これらの「穴」を保存、整備し、やがては観光資源化し歴史教育に役立てることを目論んでいる。

この研究会の案内でパダンに現存する「穴」を見て回っている。サイズやデザインは様々で、日本語なら地下壕、塹壕、トーチカ、防空壕など様々な言葉で形容するところだ。海岸からほど近いタビンの住宅街には直径3メートルほど、二、三人の兵隊が入ればいっぱいになりそうな半地下の円形トーチカが狭い道路沿いに並ぶ。銃口は道路の向こうの住宅を睨んでいる。当時の日本人の体格で設計されたのか、それとも堆積した土砂のためなのか、身長180センチを越すメンバーは膝を折らないと立っていられない。土砂が積もってしまい、中に入れないものもある。同じ地区にはコンクリートの壁が1メートルほどの間隔で二重に建つ構造物もある。対戦車戦を想定したかのようなデザインだ。

築後80年近くを経て、半壊したものもある。近隣住民の手で戦後、新たにセメントが上塗りされたと思われるものもある。雑草が生い茂り、土砂が堆積して、中を覗くことすらできないものもある。住民が物置にしたり、その上に店を作ったり、すっかりゴミ捨て場になっているものもあった。

こうして「日本の穴」をのぞいていると、不謹慎かもしれないが、トマソンな超芸術的な匂いを感じてしまう。壮絶な地上戦を経験した沖縄の戦跡とは違い、パダンの地下壕やトーチカから血の匂いは立ち上らない。パダンの「日本の穴」に死の記憶はこびりついておらず、無念に成仏できず漂う亡霊もほとんど感じない。戦争末期、連合軍による空爆や艦砲射撃はあったものの、パダンは地上戦の経験はなく、これら「日本の穴」は本来の目的だった戦闘に使われたことはない。無用の長物は戦争というコンテクストを失い、「純粋塹壕」「純粋トーチカ」として場違いな姿で日常の風景と溶け合っている(*2)。

海岸付近、現在は大学の建物が並ぶあたりには全長が20メートルほどの塹壕がある。壁の厚さは1メートル20センチもあり、中はいくつかの「部屋」に分かれている。爆風を緩和するためなのか、直線ではなく、カーブを描くデザインだ。ここは戦後何十年、最近になるまで、人が住んでいたそうだ。住人が亡くなったのはつい最近だということで、炊具などが散乱し、生活の匂いが残っている。この「穴」の上には高さ2〜30メートルの巨木が茂っている。「穴」の住人は木の根がやがて地下壕の分厚い屋根をぶち抜き、破壊してくれることを期待して木を植えたのだという。しかし、住人の願いが生前に叶うことはなかった。

「穴」があるのは敵の上陸が見込まれた海岸沿いだけではない。パダン市街の東、浜からざっと10キロも離れた丘の中腹、目につかない場所にも塹壕がある。狭い銃口は確かに海岸の方向を向いている。そうかと思えば、海岸から6、7キロ内陸へ入った場所には天井までの高さが4メートル以上の倉庫のような「穴」もある。弾薬や糧食の集積所だったのではないかと研究者は推定する。

市街の中心部にある小高い丘には、丘全体に幅1メートルに満たない狭いトンネルが迷路のように張り巡らされている。その総延長は1キロ以上になるとみられ、あちこちで地上に出入りできる口が開いている。丘全体を要塞と見立てたかのようだが、何のために作られたのか、はっきりしたところはわからない。市内各地にこうしたトンネルがいくつも残っていて、全部を合わせると総延長が16キロくらいになるのではないかと見積もる研究者もいる。全容は解明中であり、トンネルの距離や「穴」の数にしても控え目な概算に過ぎず、こんなものじゃ収まらない、軽く上回るだろうという意見もある。日本側の資料がないため、これらの「穴」が44年から45年のいつ頃作られたのかも特定できない。

小高い丘のトンネルには最近、州政府から予算が下りたようで、入口には神社の鳥居のようなゲートが建てられ、きれいに改修されていた。公的機関が歴史ツーリズムに価値を認め、こうした遺構の保存に乗り出し、社会が歴史を思い起すきっかけになればいい。

パダンの「穴」の出自を探るのに参考になるのは、25軍のふたつの「公式」史料だ。ひとつは元参謀の佐伯語作が戦後「資料皆無のため」自身の記憶や関係者に尋ねてまとめた「25軍スマトラ作戦記録」、もうひとつが「25軍スマトラ戦史」だ。これも戦後の51年、山口英治、大村栄、倉増琢二の元参謀3人の記憶を頼りにまとめたもの。戦後、ほとんどの書類を破棄したため、どちらも間違いやバイアスがかかる可能性を考慮した上で参考にする。

これらの「穴」がほとんど防衛を目的に作られたとすれば、その構築時期は43年暮れから45年にかけてだろう。42年3月の占領開始以降、25軍は軍政の導入、安定確保に忙しく、敵の侵略を考慮して防衛に真剣に取り組み出すのは25軍がシンガポールから移駐してからのことで、たぶん43年9月以後のことだろう(「さらば昭南:25軍と南方軍の確執」参照)。

「大東亜共栄圏」はすでに42年6月のミッドウェー海戦、8月のガダルカナル島への連合軍の上陸あたりから綻び始めていたが、それが本格化するのは三国同盟の一角のイタリアが降伏し、連合国軍がアジア戦線に本腰を入れる43年9月あたりだろう。同じ月、東京で開かれた御前会議では「絶対国防圏」が設定された(*3)。9月15日の上奏「今後の作戦に関する件」では杉山参謀長と永野軍令部総長はスマトラ侵攻の時期が「本年雨期明け後」にもあるかもしれないという見方を示した。

印度洋方面におきましては最近の同方面の通信状況、海上輸送量の増加、東亜軍司令官の新任など、各種の情勢を考えますと本年雨期明け後、ビルマ陸上作戦と関連いたしましてアンダマン、ニコバル諸島状況により、スマトラ方面などに上陸作戦を企図する算、極めて大なるものと存ぜられるのでございます。この場合、これに策応いたしまして太平洋方面におきましても攻略、あるいは空襲等を行い以って我が勢力の牽制に努むるものと存じます。

叢書 マレー蘭印の防衛 p 122 

スマトラを含む「絶対国防圏」では防衛に向けて軸足が大きくシフトした。スマトラの防衛に第4師団の投入が決まり、15、16独立守備隊は25、26独立混成旅団に改編された。これで防衛兵力は「倍化」した(25軍スマトラ作戦記録 p17)。

「穴」の構築は連合軍の反抗から島を守るためだが、スマトラを襲うと考えられた敵は誰で、どのくらいの規模の敵を考えていたのか。25軍が備えたのはセイロンの基地から発進する2、3個師団の英印軍だった。植民地の奪回を目指すオランダ軍ではない。25軍は英印軍の侵攻を撃退するために「穴」を掘った。英印軍がスマトラを攻撃するのはスマトラそのものが目的ではない。目的はあくまでもシンガポールの奪回であり、スマトラはそのための前進基地として利用する、シンガポール奪回のために飛行場などを確保するためだった。あくまでもシンガポールが目的だから、スマトラを素通りし、すでに制海権を握るマラッカ海峡を下り、マレー半島西岸に上陸し、直接シンガポールを叩く可能性もあると考えられた。

英印軍の上陸が最も恐れられたのは島の北辺、ロスマウエ(Lhokseumawe)からコタラジャ(現バンダアチェBanda Aceh)に至る東西に伸びる海岸地域だ。その次に敵の上陸の可能性があると考えられたのはインド洋に面するシボルガやパダンのある西海岸だ。英印軍はパダンなどに上陸し、島を南北に分断、シンガポールを目指すかもしれないと見られた。

敵は陸からも海からもシンガポールへ直接兵を進めようとはしないであろう。まず北部スマトラのアチェ地区に空海から上陸を試み、ここに飛行場を設定し、空からシンガポールを封鎖してその無力化をはかるであろう。そうして戦力の充実と共に一挙にスマトラ島を南下しつつ、マラッカ海峡を押し渡ってシンガポールへ向かうものと考えられた。その来攻時期は昭和20年の秋頃と予測された。

この敵情判断は戦後判明した東南アジア軍のシンガポール奪還作戦計画と全く膚接していた。

鈴木正七「天下征討」『秘録大東亜戦史 第5改訂縮刷決定版』富士書苑 1954 p 560

こうした判断に基づき、北辺に近衛師団、第4師団をパダン付近、やはり西岸のシボルガなどには独立混成25旅団、ベンクール周辺に独立混成26旅団、ペカンバルは25軍直轄という防衛体制を敷いた。スマトラ各地に残る防衛用の「穴」はそれぞれ、これらの部隊の手で敗戦までの間に急速構築されたものだ。

北部に配置された近衛第2師団は42年5月から師団長を務める武藤章のもとで防衛陣地作りをすすめた。元軍務局長の武藤(44年10月、山下の第14軍参謀長としてフィリピンに転出)は「戦争は負けた。然し我々のスマトラは負けぬ」と次のように回想した。

陣地は縦深に構築された。食塩乾魚、ハム等が各隊に製造された。ガソリン、米等は後方の山地に重畳集積された。原始的方法による火薬も製造した。在留邦人はそれぞれ分担任務を予定された。接客婦に至るまで看護婦教育を施した。

(略)私は北部スマトラにおける一切の作戦準備に対して全責任を負うものである。かくて昭和19年(1944)となり米軍の太平洋反撃作戦は愈々その速度を加えた。日本内地とスマトラの連絡遮断は必然と予想された。私は北部スマトラに関する限り自活自戦の体制を確立して他の援助を期待せぬ覚悟で万事を取り運んだ。米軍がサイパン、パラオを占領した時、私は副官に「戦争は負けた。然し我々のスマトラは負けぬ」と語ったことがある。(略)2年間以上も訓練した部下とともに、心魂を傾けて準備したここスマトラで、思う存分戦って死にたいと思ったことも事実であった。

武藤章 比島から巣鴨へ p 81〜82

アチェの山奥に現地人ロームシャや捕虜を駆り立て、ブランケジェレンとタケンゴンの間の道路作りに取り掛かるのは44年になってからだ。防衛計画に基づく「主要作戦道路の整備の企図」のひとつ、シジカラン〜クタチャネ〜タケゴン〜ビルンの間の道を自動車が通れる道に拡張整備するためだった(「アチェ部隊」参照)。

パダン地区で防衛築城が始まるのは4師団が到着した43年12月以降だろう(*4)。9つの歩兵大隊、2万近い軍勢を持つ4師団の司令部がパダンにおかれ、パダンとパリアマン地区の防衛は歩兵37連隊の3つの大隊が当たった。空襲が恐れられたインダルン地区のセメント工場には野砲兵第4連隊(砲兵大隊)が配置された(*5)。残る6つの歩兵大隊(歩兵第8連隊、歩兵61連隊)は25軍直轄の機動部隊として、ことあらばスマトラ各地に派遣される予定だった。4師団参謀長の小栗軍二の回想。

防御配備は第25軍の指導により後退配備をとった。主な防禦陣地はパダンの東方地域に構築し、パダン港と飛行場はなるべく永く敵の利用を妨害するようにした。

防御要領において、馬場師団長は機動防御を実施するには、陣地の構築よりも機動に適するようにまず交通網を整備したいとの意見であった。しかし田辺軍司令官は当初は隠蔽した地域で逐次抵抗を行い、その間、機を見て反撃を加えるのであるから、まず、陣地を堅固に構築すべきであるとして、そのように指導した。軍司令官と師団長の意見が合わないので、参謀長として両者の調整に苦慮した。

セメントは十分に使用できたので、海岸線に戦車防禦を主としたコンクリートの障壁を作った。これは住民の勤労奉仕によるもので、約5キロにわたるものであった。

師団長は射界を重視したが、軍は短小射界で満足すべきであるとしてもっぱら隠蔽を力説した。敵がスマトラ北西域に上陸した場合、主力を持ってメダン方面に機動することを考えて道路偵察を行った。また軍の指導によってこの方面の兵要地誌の研究整備を行なった。

叢書 マレー蘭印の防衛p 233

小栗の短い発言からいくつかのことがわかる。第25軍の指導による「後退配備」は具体的にどんなことを指すのかわからないが、防衛の主眼は港と飛行場だった。シンガポールを目指す英印軍にそこを使わせないようにすることが歩兵37連隊の任務であり、そのために陣地が作られたのは「パダンの東方地域」だった。

それと並行し、約5キロの「海岸線に戦車防禦を主としたコンクリートの障壁」も作られた。小栗の言う「障壁」は高さ3メートルほど、厚さが1メートル近いコンクリート作りの連続する「壁」だった。45年5月、ペカンバルからパダンに出張した岩井健は次のように記憶する。

椰子林を通して見える海岸には、砂浜に沿ってコンクリート掩体がまるで堤防のように延々と続いていた。急迫した戦局にたいし、敵の上陸に備えて、防衛隊が人海戦術で俄に構築したものだった。何百年も前の元寇の頃と発想的に何ら変わらぬ防御の知恵であった。山川を眺めると、スラシー山脈に沿って、ソロ村に通ずる急坂路を中心に、トーチカ陣地らしいものが点々と見えた。

岩井 p193〜4

海岸沿いに「堤防のように延々」と続くコンクリートの「壁」は戦後、ほとんど撤去され基礎も砂に埋もれてしまったが、数カ所に、今でも痕跡が残っている。相当頑丈な作りで、重機材でも歯が立たなかったと近所の人が語り伝えるように、海岸から海の方へ押し出された掩体の一部がいまも波に洗われている。付近には基礎だと推測されるコンクリートの塊が砂浜に顔を出す。

5キロというのはパダン山を河口にもつアナイ川からほぼ、タビン飛行場あたりまでの距離に相当する。防衛の主眼のひとつだったタビン飛行場と浜の間には2、3人用の円形トーチカが多数残っている。2005年まで民間の飛行場として使われ、現在はインドネシア陸軍の駐屯する元飛行場の敷地にもトーチカがいくつか残っている。元飛行場と浜の間、表通りに面する自動車ディーラーの裏地には対戦車用かと思われる構造物もある。「海岸線」ではないものの、小栗の言う「戦車防禦を主とした障壁」にこれらが含まれていた可能性もある。

小栗の発言で興味を引くのは、25軍が穴掘り、築城を優先しろといい、第4師団は機動力を発揮するため、道路整備を優先させようとして意見の対立があったことだ。この頃の25軍は「切り込み、洞窟、体当たり」を合言葉にしていた(*6)。二つの組織の間では、「穴」の銃口のデザインを巡っても対立があった。4師団の馬場師団長はそれを大きくし射撃範囲を広げろと主張した。25軍は敵の弾が当たらないように、それを狭くすることを主張した。

インドネシアや海外の研究者、識者の間は往々にして「日本軍」や「日本」と、あたかも一枚岩の組織のように語られることが多いが、現実はそうではなかった。どんな国や組織でも意見の違いが存在する。それを忘れては歴史の本質は理解できない。小栗は25軍と4師団の狭間で調整に苦労したことを隠さない。

これらの防衛陣地作りに動員され、実際、「穴」掘りをやらされたのは誰だったのか。雀の涙にしろ賃金の受け取りを前提としたロームシャが使われたのか。その頃までに5千人ほどの配属が終わっていた義勇軍という名の現地人奴隷が使われたのか。

兵力の不足を補うため予て義勇軍幹部を要請中なりしが昭和19年3月初めて義勇軍30個中隊の編成を終わり夫々各兵団に配属せり。

スマトラ戦史 p21

ブキティンギの地下壕堀りには「主として」義勇軍が使われたと書かれている(『スマトラ作戦記録』 p 31)。小栗によれば、パダンの工事は「住民の勤労奉仕」で行われた。

これらのことがわかってきたが、遺構を研究する郷土史家の間には、なぜ、パダンにこれだけ膨大な数の防衛陣地がそもそも作られたのかという疑問がある。日本軍の侵略した東南アジア全体でも、建築から80年近くを経て、これだけの数の「穴」が残るのはパダンくらいのものかもしれない。そこに何か、日本軍が何としてもパダンを守ろうという強い意志を感じるかもしれない。少なくとも戦略的な価値を見ていたのではないか。もしかするとミナン人に何がしかの親近感を抱いていたのではないか、などと勘繰るものさえいる。そう思い込みたくなるほど「穴」がある。

史料は限られており断定はできないが、これらは邪推にすぎないだろう。そうした類の文書は目にしていない。もちろん、これまで目にしないからといって、こうした説が間違っていると一概に断定することはできない。しかし、パダンにこれだけの「穴」が作られ、今でも残っているのはもっと簡単に説明がつく。小栗がサラリというように、パダンでは「セメントは十分に使用できた」からこれだけの「穴」を作ることができたのだ(「セメントの重さ」参照)。

それがパダンの持っていた特殊な事情だ。民族がどうとか、戦略的な価値とかには関係がない。南方で唯一生産を続けるセメント工場がパダンにあった。戦略的にパダンよりも「穴」を必要とした場所、「穴」を作りたい、作るべきだという場所はたくさんあったかもしれない。しかし不如意、意の如くならなかった。言葉を換えれば、当時、防衛用の「穴」をこれだけボコボコと、好きなだけ作ることができたのはパダンだけだった。

メダンのある東海岸州では防衛築城の始まりが遅れ、近衛歩兵第5連隊はセメントが入手できず、木材で要塞を作らなければならなかった(作戦記録 p0685)。パレンバンでは防空用の陣地作りや飛行場作りをすすめるべく捕虜や現地人ロームシャは手配したが、セメントが手に入らず思うように工事に取りかかることができなかった(叢書 マレー蘭印の防衛 p 235)。これらの場所ではできないことがパダンでは容易にできた。

今になってもこれだけの数の「穴」が残っているのはセメントが「十分に使用できた」からだろう。ちょっとやそっとの砲撃や銃撃にはびくともしない強靭で堅固な「穴」を作ることができた。セメントをふんだんに使えたからだ。こうして頑丈に作られたからパダンの「穴」は80年ほどにわたる自然の侵食を物ともせず、ちょこざいな「開発の魔手」も、これまでのところは、しっかりと跳ね返すことができたのだろう。

45年1月、南方軍は「昭和20年度下半期作戦計画」を策定する。シンガポールやマレー、タイやインドシナ半島に防衛の重点が移り、戦力はそこに集中する方針が明らかになった。

確保地域はインドシナ、タイ、馬来。その外周にあるビルマ南部、スマトラ 、ジャワ、ボルネオはそれら確保地域を防衛するための「持久地帯」とみなされた。

叢書 『南西防衛』p378

「持久地帯」の役割は主決戦のために時間を稼ぎ、敵の力を分散させて集中できないようにすることだ。「持久地帯」のパダンから、スマトラからも1月以降、兵力がどんどんと別な場所に移動した。1月14日、西海岸から4師団の主力がタイへ移動する。そのわずか3週間後の2月7日、パダンなど中部スマトラの防衛に残されるはずだった歩兵37連隊などもタイへ移動する。ごっそりと兵力がそがれ、いざという時の機動部隊もなくなった。手薄になった軍勢は限られた数の「要地」の防衛に集中するしかなく、これまで兵が置かれ、陣地の築かれた場所もどんどんと放棄されていった。

スマトラはすでに本土や大陸との交通が遮断され、本土決戦に手を貸すすべもない。ジャワやシンガポールに石油や石炭を供給したくとも、交通手段がない。方面軍はシンガポールを中心とする自立自衛態勢の急速整備に取り組んでいた。25軍は残された戦力を限られた場所に集中しその要塞化を図る一方、残りは事実上、防衛を放棄した。兵力が島の外に転用され、削減されていく流れのなかで25軍は残された戦力で「スマトラ持久作戦」に取り組み、「決号作戦」の準備を進めた。最後の一戦、だ。「作戦記録」には45年5月以後の時点で、25軍がどんな戦いを挑むつもりだったのか、次のように書かれている。

パダンを受け持つ25旅団は手持ちの兵力で上陸してくる敵を叩き、水際での壊滅を目指す。手が足りなければ、島内の他地域から兵力を増強する。のだが、具体的にどこから、どのくらいの兵力を送ることができるかは出たとこ勝負だった。多分、近衛師団から歩兵大隊三つ、26旅団から歩兵大隊一つ程度は可能かもしれないが、本音はその時になってみないとわからない。水際で敵を撃滅できなかった場合は、後方に用意した縦深な陣地から敵を攻撃し、その進出を妨害し、戦力の消耗を図る。他から駆けつける部隊は地形を利用し、敵の進出を妨害する(p0677)。

具体的な戦闘方法は悲壮だ。油がふんだんにある場所では水際に「火焼地帯」を設定、火炎発射機で攻撃する。その製造を爆薬や爆薬投擲器、地雷などとともに準備する。特攻という名の自殺攻撃はここでも用意されていた。300機を目標に特攻機を用意、これを敵が上陸開始するまで隠しておき、上陸後に攻撃する。一体それだけの数の飛行機があったのか、飛行士がいたのか、記録されていない。水上の特攻艇や特攻水雷も製造が進められたようだが、大したものはできなかったと書かれている(*7)。これらの作戦には軍の兵隊だけでなく、島に住む日本人を招集、戦闘準備、訓練を施す。島民を義勇軍、兵補として協力させようとしたが、準備は十分ではなかった、と佐伯は結ぶ(p0687)。

5月26日にはさらに独立混成26旅団もシンガポールへ抽出され、島に残るのは近衞師団と25旅団だけになってしまった。タパヌリが近衛師団の作戦地域になり、歩兵1個大隊、砲兵一個中隊がシボルガに移動。25旅団は司令部をパダンに移動、西海岸、ベンクール、ジャンビの防衛を受け持った。

全く手薄になったスマトラにもし敵が上陸していたらどんなことになったのか。「切り込み、洞窟、体当たり」の壮絶な肉弾戦が展開されたのだろうか。

パダンの穴

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*1)ブキティンギの「穴」については25軍の主計大尉でその設計、施工を担当したという本庄弘直がその築造の由来を書き残している。本庄によれば、ブキの「穴」は44年4月、司令官の田辺の命令で本庄自身が設計、その築造の監督をしたと言う。この穴について「25軍スマトラ作戦記録」は次のように記載する。

軍は予てよりブキティンギ周辺地区の複郭陣地の構築を企図せしが第一線兵団に対する影響を考慮するときは第一線部隊を以てこれが構築を担任せしむること能わず。

ここにおいて軍はブキティンギ防衛司令部を臨時編成して主として義勇軍並びに軍直轄自動車部隊および通信部隊の小兵力を以てこれが構築に任ぜしめたるも僅かに基幹陣地を構築し得たるにすぎざりき。

作戦記録 p 31

「作戦記録」は臨時編成されたブキティンギ防衛司令部、そして現地人からなる義勇軍と軍直轄の自動車部隊と通信部隊が建築にあたったとする。「スマトラ戦史」によれば、この「穴」は「ブキチンギ防衛隊」(44年8月1日編成)の手によるもので、その中身は「同地周辺所在部隊(主として後方兵站部隊)」で隷下に「富(25軍)築城作業隊」がいたと書かれている(p 0649)。

建設された時期について、本庄は正確な時期は忘れたが「残っている写真アルバムから判断すると昭和19年3月から6月上旬」の3ヶ月ほどだったとする。「スマトラ戦史」は時期については言及しないが、8月1日に編成されたブキチンギ防衛隊によると書き、工事は当然それ以降だ。

本庄はこの穴は「陣地」ではなく、秘密にする理由はなく、秘匿保持の要員もいなかったと言うが、「穴」の建設に関わった軍人は某軍曹と本庄のみ、軍からは貨車(トラック)が一台配備されただけだった。秘密にする理由はなかったが、「第一線兵団に対する影響」や士気への影響を考え、第一線部隊は使わなかった。大っぴらにやるのは避けた。そのためなのか、同じブキティンギにいた軍政監部の前野健男はそのことを知らなかった。

質問:日本軍が作った巨大な要塞が発掘されていましてね。当時そんな巨大な要塞を作っていたんですね。

前野:要塞って、そこに要塞があったとは、全然記憶がありませんけれどね。戦争末期には我々が仕事ができる程度のね、地下壕をつくりましてね。(略)まあ、私は軍政監部の方の仕事で、司令部の方でそういうものを作っていたのかどうかは私は知らないんですけれど。

前野健男 「証言3 スマトラの産業政策を語る」『証言集 日本占領下のインドネシア』 p120

また、近衛師団通信隊の一員で「情報通」だった総山孝雄も知らなかった。戦後、「日本軍が要塞化するためにインドネシア人労務者に銃剣を突きつけ、穴を掘らせ、過労のために死んだ労務者を放り込んだと聞いて、びっくりした」と語る。

というのは通信隊の将校として消息通を持って鳴らしていた私がそんな話は全く聞いていなかったからです。一体トンネルを掘って要塞化して守るなどという戦法はラバウルやペリリュー島のような逃げ場のない離島でこそ必要なのですが、日本本州の面積の二倍もあるスマトラで戦っていた我々には、そんな考えは全くありませんでした。(略)あまりにも不思議なので、当時25軍司令部の通信係将校として終始ブキティンギにいた友人に手紙で問い合わせましたが、そういう話は聞いたことがないとキツネに包まれたような返事が来ました。

総山孝雄 「証言2 激動の北スマトラに接して」『証言集 日本占領下のインドネシア』 p 69

主計科の大尉の本庄が「穴」の設計、施工をなぜ任されたのか。腑に落ちない気もする。当時、本庄は司令部経理部経営課の先任将校で経理、営繕、衣糧などが本職だった。本庄自身は、大学卒業後、麻生鉱業本社石炭係で、石炭の基礎を学んだからではないかと推測する。また実際の構築にはオンビリン炭鉱を任されていた北海道炭鉱汽船から壺田俊彦所長、工藤一三、小浅卯平の三人が派遣されて監督にあたったほか石炭採掘技術者などの技能工も駆り集められたと書く。

*2)パダンで唯一の「地上戦」は42年3月に近衛師団歩兵第4連隊(近歩4)が侵攻した時だ。メダン東方のラブハンルク付近に上陸した近歩4はトバ湖を経て、スマトラ島を横断、すでに無防備都市を宣言していたパダンに3月17日、無血入市した。シンガポールから逃げてきた英兵や豪兵は蘭印官警の手で武装解除されていたので、ほとんど戦闘らしい戦闘はなかった。もちろん、「日本の穴」が掘られる以前のことだ。

*3)「今後採るべき戦争指導大綱」「右に基く当面の緊急措置に関する件」が決定され、「帝国戦争遂行上、太平洋及印度洋方面において絶対確保すべき要域を千島、小笠原、内南洋(中、西部)及西武ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域」とした。

*4)4師団について、近衛師団通信隊の総山孝雄の回想。

ほんのしばらくの間、大阪の第4師団が増援されたんですが、この部隊は誠に質が悪くて閉口しました。近衛師団の兵士がトラックを止めて店に入って用を足していると、4師団の兵士が入り口に見張りを立てておいてその車から車輪を外して持って逃げてしまって途方に暮れる事件がしばしばありました。交通機関の不足していた当時の住民はよく軍隊のトラックへ手を上げて止めてヒッチハイクをやりました。近衛師団の将兵は喜んで乗せてやって車上で歓談しながら目的地で降ろしてやるのが常でした。ところが4師団の兵士は便乗した住民から乗車賃を取ったのです。これでは住民との連帯感は壊れてしまいます。間も無くビルマ戦線が崩壊してタイ国が危なくなり、4師団はそちらに転送されたので、我々はほっとしたものです。我々は住民と協力して敵を迎え撃つつもりでしたから、インドネシア人を兄弟のように思って大事にしていましたが、4師団の兵士の態度はまったく違い、色々と悪いことをしたようです。

総山孝雄 「証言2 激動の北スマトラに接して」『証言集 日本占領下のインドネシア』 p 74~75

*5)インダルンのセメント工場はハイフォンとバンコクの工場が連合軍の空爆で破壊され、生産を停止して以来、南方地域では稼働を続ける唯一の工場だった。セメント工場は重視されたが、その主眼は防空であり、野砲兵4連隊が配備された。44年8月24日のパダン空襲では、セメント工場が港と共に攻撃目標になり野砲兵4連隊第3大隊が「対空戦闘」を行った。

*6)横断鉄道建設に投入された鉄9第4大隊に対しても25軍は「洞窟」掘りを求めた。「まづ、戦力の温存手段として洞窟掘削が半ば強制的に進められていた」。鉄道兵は現場を巡視する軍参謀たちから「叱られても、なおかつ洞窟には手をつけず」鉄道建設に邁進した、と当時の状況を述懐する(『光と影』 p32~33)。

*7)45年3月、第7方面軍の命令でマレー半島中部、西海岸を防衛するため25軍と29軍から兵士が集められ、昭南の第三船舶輸送で訓練が行われた。木造合板製の長さ約5,6m、自重約1トン、自動車エンジンを積み速力20ノットで走る連絡艇と呼ばれた小船でビルマ方面からシンガポール方面に向かう敵艦を狙い攻撃する腹づもりだった。狙いは輸送船で、夜襲をかけ、連絡艇の後部に積んだ2個の爆雷を近くまで忍び寄り、投下、爆発させる算段だった。

攻撃後、1名の乗員は「つとめて収容し、再度の戦闘を準備」(叢書 『南西の防衛』p 346)することにはなっていたが、実際は肉弾攻撃の特攻作戦だったろう。

 

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