「パダン日報」を探して

当研究会の代表、江澤誠はスマトラ横断鉄道について調べる過程で、日本軍占領下のパダンで発行された邦字日刊紙を探し出し、2017年に復刻した。江澤は先日上梓した最新刊『スマトラ新聞を探して 』(花伝社)で、「幻の新聞」発掘の経過、日本軍による軍政、特にそのメディア政策、そして戦争の実相に迫る。

スマトラ新聞は25軍の司令部がシンガポールからブキティンギに移された直後、43年6月8日に創刊され、敗戦の45年8月まで日刊(日曜休刊)でほぼ650号が発行された。江澤が見つけ出し復刻した94号分(43年10月1日から44年1月20日まで)プラス1、ほぼ4ヶ月分の紙面で横断鉄道に3度触れる。そのうちの2つについては江澤が『「大東亜共栄圏」と幻のスマトラ鉄道』(p 359〜360)で取り上げている。重複するが下記で辿っておく。

江澤の復刻した分のスマトラ新聞で横断鉄道が最初に言及されるのは43年10月12日付けの紙面だ。

「横断鉄道打合せ 日映の撮影準備も進む」という見出しで、工事を統括する25軍軍政監部交通総局が14日にブキティンギで「打合会」を開く予定だと書かれている。

スマトラの〇〇と〇〇を結ぶ横断鉄道建設は、すでに画期的工事として日夜分たぬXX準備工事が進行しているが、軍政幹部交通総局では、今後の本格的工事運営のため来る14日ブキチンギに於いて工事現場首脳者との打合会を開催することになった。尚、X工事の建設状況について日本映画社では、記録映画として後世に残すため近く撮影を開始すべく準備中である。」(〇〇は原本の伏字。XXは判読不明な文字。)

スマトラ新聞 43年10月12日付け

横断鉄道の建設は、その年初頭からスマトラ交通総局のもとで国鉄から抽出した軍属250名ほど(岡村隊)と民間建設業者が現地人ロームシャを使役し、基盤作りに取り掛かっていた。まだ、鉄道連隊や捕虜が投入される前で、レールの敷設は始まっていない。

記事の終わりには、日本映画社(日映)が撮影を計画していると書かれている。江澤の調査によれば、横断鉄道を記録する映像は見つかっておらず、この記事に書かれる撮影そのものが行われたのかどうかも不明だ(*1)。

スマトラ新聞43年10月16日

二つ目の記事はその4日後、10月16日付けの紙面の「短波短信」というコラムだ。上記、12日付けの記事が言及する「打合会」を受けた内容で、工事が過酷な状況で進んでいる様子が描かれている。それは「闘うスマトラ、建設のスマトラの生きた現実」と形容されている。

(将来?)スマトラの幹線たるべき〇〇を結ぶ横断鉄道の建設のため準備工事を今急いでいるが、この現場建設隊の日夜分たぬ労苦は多くの(隠?)れた美談を生んでいる。鬱蒼たるジャングルと沼澤地帯を切り拓き全く先人未踏の奥地で胸まで泥と水にまみれ、野象、猛虎、毒蛇、山ヒル、マラリア蚊などと(終?)始戦いながら、しかも何等の慰安設備もなく、ある時は野天で寝たり、実に人知れぬ苦労を重ねて、仕事を進めている。現場事務所にはこれらの苦闘を物語る戦利品として建設隊の打ちとめた猛虎XXX十数頭等が飾られている。この建設隊の人々は明日のスマトラのために、XXXと与えられた苛烈な任務を遂行している。此処に見事な闘うスマトラ、建設のスマトラの生きた現実がある。

我々スマトラに住む者は、こうした人々の労苦を考え彼らの労苦を己のものとし、ともに明日のスマトラのために挺身すべきではなかろうか。

スマトラ新聞 43年10月16日

三つ目は44年1月5日号で「決戦スマトラの交通」の見出しのもと、交通総局長の壺田修が引用され、鉄道関係で横断鉄道にサラリと触れている。前年暮れに貫通したクラ地峡横断鉄道の建設隊長の鋤柄政治のもとにふたつの鉄道連隊を加えた建設部隊が編成され、工事が加速するのはその翌月のことだ。

スマトラ新聞は「パダン市ヒルゴ12番地」に社屋を置いた昭南新聞会スマトラ支部によって制作された(*2)。昭南新聞会は42年10月17日に政府の発表した新聞政策要項に基づき、同盟通信(1936年)を中心に、地方紙が協力して42年12月に作られ、シンガポールやマレー、スマトラの占領地で新聞の発行、運営にあたった。スマトラ支部には北海道新聞(道新)から人員が派遣された(*3)。

当時の道新には軍の「南下政策」に便乗し、南方進出の足がかりを築こうという構想があった。

北海道新聞労働組合 「スマトラ島で国策新聞づくり」『記者たちの戦争』 p 72

「南方進出の足がかり」をつかむため、44年までに12人の社員が道新からパダンに送られ、スマトラ新聞を制作したほか、マレー語の「宣撫紙」パダン日報作りに携わった(*4)。

日本軍の占領した各地ではスマトラ新聞のような邦字紙が発行されただけではなく、現地人向けに現地の言葉で宣撫新聞を発行した。昭南新聞会はスマトラでパダン日報のほか、メダンで(北)スマトラ新聞、アチェ新聞、パレンバン新聞を発行した。このうちアチェ新聞や(北)スマトラ新聞はジャカルタの国立図書館にマイクロフィルムで保存されており現物を目にすることができる。しかしパダン日報はパダンの図書館にもジャカルタでも見つけることができず、「幻の新聞」だ。

43年初夏、28歳の時に道新から派遣され、スマトラ新聞の編集を経て、その後パダン日報の監督を担当した栗原純一はパダン日報の概要を次のように語る。

インドネシア語紙は現地のインドネシア人記者が取材し、執筆していました。編集長以下、書き手は10人余り。紙面は、本土から送ってくる大本営の発表者が表面を大きく飾り、裏面を地元の話題、催しなどが埋めた。

北海道新聞労働組合 同上 p 74

日本軍の占領した各地の新聞事情はもちろん一様ではなく、中には新聞作りに必要な器材や人材をすべて持ち込まなければならない場所もあった(*5)。パダンはその対極で、日本語紙はともかく、「インドネシア」全国でもいち早く新聞の発行された場所であり、新聞発行の長い伝統があった。ジャーナリストや編集者など新聞を作る人材、器材や体制があり、パダン日報は占領軍が何もないところで一から立ち上げたものではない。進駐した日本軍は成熟した新聞発行の文化を利用しただけだ。

パダン市ヒルゴ12番地、社屋の前。スマトラ新聞創立一周年の記念撮影。44年6月。社屋にPADANG NIPPOと書かれている。
北海道新聞労働組合 「スマトラ島で国策新聞づくり」『記者たちの戦争』径書房1990、p 78より。

インドネシアのメディア「正史」によれば、この国最初の新聞はバンドンで1907年1月1日に創刊され、12年まで発行されメダン・プリジャジ(Medan Prijaji)だとされる。この「正史」にはすでにさまざまな批判がある。メダン・プリジャジが産声を上げるはるか以前から、蘭印各地でいろいろな言葉、異なる字体で各種の新聞が発行されており、特にミナンカバウの地には新聞発行の長い伝統があったからだ(*6)。

パダンでは少なくとも1862年にオランダ語のスマトラ・クーラント(Sumatra Courant)が発行されていた(62年6月14日付けの紙面がarchive.orgで閲覧できる)。マレー語のビンタン・ティモール(Bintang Timoer)の創刊は1864年12月7日のことだ。1901年には「マレー語ジャーナリズムの父」と称されるMahyuddin Datuk Sutan Marajoウォルタ・ベリタ(Warta Berita、1901)を創刊した(*7)。

メディア「正史」は「インドネシアの新聞」をマレー(インドネシア)語、(ジャウィ文字ではなく)アルファベットを使うこと、経営、編集が「インドネシア」人によるものと規定するが、それに従えばウォルタ・ベリタがこの国「最初の新聞」ということになる。「最初の新聞」云々はともかく、日本軍の侵略以前、パダンだけでなくフォート・デ・コック(のちのブキティンギ)などミナンカバウの各地で、マレー語、アラビア語、オランダ語などさまざまな言葉で新聞が発行されていた。パダン日報はこうした新聞発行の長い歴史を反映したものだった(*8)。

戦争前、パダンでは4紙が発行されていた。そのうち、1914年創刊のシナー・スマトラ(Sinar Sumatera)とスマトラ・ボデ(Sumatera Bode)は近衛師団がパダンを「無血開城」する42年3月17日前にすでに休刊していたが、ペルサマアン(Persamaan) とマレー語と中国語紙、ダグブラド・ラディオ(Dagblad Radio)は発行を続けていた。このふたつは、25軍の軍政下で厳しい検閲を受けたが、少なくとも一年ほど発行を継続した。43年6月、このふたつを統合したのがパダン日報だ。日本国内で「一県一紙主義」のもと、複数の新聞が統合されたように、上記、栗原の言及する編集長や書き手、経営者はこのふたつの新聞の社員だった(*9)。

江澤はスマトラ新聞やスマトラ横断鉄道が歴史の闇に埋もれた理由はスマトラが「地政学的な周縁」であったこととともに「意識のうえでの周縁」に置かれているからだと指摘する。メディア「正史」もそうだが、独立後のインドネシアではジャワ中心史観に振り回されることが多い。内外の研究者は「インドネシア」の歴史をジャワ中心に見がちで、スマトラを「意識の周縁」に置きがちだ。

新聞に関する限り、パダンやミナンカバウの地だけでなく、メダンなどでもメディア正史の認定する「インドネシア最初の新聞」が発行される以前から、すでに新聞の伝統があった。それらの新聞を通してスマトラの住民は世界の事情を知り、「インドネシア」という新しい国の概念や「独立」について、活発な議論を展開した。パダン日報も「意識の周縁」から発掘されなければならない。

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*1)捕虜の証言から、現場で映像の撮影がおこなわれただろうことは間違いないようだ。しかし、捕虜が投入されたのは44年5月以降であり、この記事の書かれた頃ではない。映像撮影時期がはっきり特定できるのは炭鉱への支線が開通した45年2月ごろだ。すでに日本との交通は遮断状態にあり、撮影者が「日映」だったのかどうかはわからない。また、撮影された映像がどうなったのかも不明だ。

2022年当時の12 Jalan Hiligoo

*2)江澤は復刻版の「解題」で「この昔日の住所では新聞社のあった場所は特定できない(p210)」と書くが「ヒルゴ12番地」は、たぶん華人街の外れのエリアにある12 Jalan Hiligooだろう。町の中心部で、古くから新聞社などがあり、25軍の占領時代には軍関係の施設がたくさん置かれていた。

スマトラは地震が頻発する場所で、パダンもたびたび震災を経験してきた。この地区も2009年の地震で倒壊した建物が少なくなく、戦前からの建物はあまり残っていない。現在この住所にある建物がいつごろ建てられたものなのかわからない。ここで家具店を営み10年ほどだという店主は、昔ここに新聞社があったと聞いたような気がするとはいうものの、詳細は何も知らなかった。

*3)昭南新聞会に加盟したのは北海道新聞のほか、河北新報、東京新聞、日本産業経済新聞、中部日本新聞、北国毎日新聞、大阪新聞、神戸新聞、高知新聞、京都新聞、合同新聞、中国新聞、西日本新聞の各社(『新聞総覧昭和18年』 日本電報通信社 1943 p 226)。なお『新聞総覧昭和18年』の同ページにはパダンで発行された「馬来語」新聞の名前が「パダン新聞」と誤表記されているほか、北スマトラのメダンで発行された「馬来語」の「スマトラ新聞」は記載されているがパダンで発行された邦字紙の「スマトラ新聞」は記載されていない。

*4)北海道新聞から出向しスマトラ新聞に勤務した泉隆は自らの経験を辿るように、「戦火に背いて」でジャーナリストの目から見た敗戦時の模様をフィクションで書いている(『秘録大東亜戦史第5改訂縮刷決定版』1954 p503)。

*5)42年12月、海軍が軍政を敷いたセレベス島で昭南新聞会マカッサル支部を立ち上げ、セレベス新聞マカッサル版を制作した内田啓明の回想。

業務に必要な無線機やガリ板、印刷機、文具類は全くない。ローマ字無線を受信する現地人オペレーターもいない。

私の戦後60年 同盟・南方海域での報道活動 2005年12月

*6)2007年にはこの歴史認識に基づき新聞生誕100年が祝われ「Seabad pers kebangsaan, 1907-2007(我が国の新聞100年の歴史)」が出版された。1200ページを越す書物をざっと俯瞰しただけだが、インドネシア誕生以前、日本軍政下の新聞事情についてはジャワ新聞に短く触れるだけで、スマトラ新聞やパダン日報は出てこない。

この「正史」に対する反論はSuryadiSudarmokoなどの研究、PadangkitaPadang Ekspresなどの記事を参照。

*7)パダンで最初に発行されたオランダ語の週刊紙、スマトラ・クーラント(Sumatra Courant)はarchive.orgに62年から64年にかけて発行された25号が収蔵されている。

パダンでは「新聞誕生」の1907年以前までだけでもペリタ・ケチール(Pelita Ketjil、1886創刊)、チャージャ・スマトラ(Tjahja Sumatra、1897創刊)などの新聞が発行された。これらの新聞はアジアの動静について報じるほか、新たな国のあり方について論じ、詩や文芸欄もあった。ペリタ・ケチールはメッカに特派員をおき、イスラム世界の動向をミナンカバウ人にいち早く伝えたとされる。1911年には「女性紙」、スティング・メラユ(Soeting Melajoe)も創刊された。

*8)新聞文化の発達していたのはパダンやミナンの地だけではない。北スマトラではオランダ語のデリ・クーラント(Deli Courant)が1885年3月17日に週2回刊で創刊され、マレー語の新聞はペルチャ・ティモール(Pertja Timor)が1902年の創刊されていた。1916年1月17日創刊のベニー・メルデカ(Benih Merdeka「自由のタネ」、1920年以降は単にMerdekaと改称)はMerdekaを名前に織り込み、「独立」を公然と主張した「インドネシア」最初の新聞だとされている。

*9)パダン日報は理事にMarah NurdinとLien On Sam、主筆はSuska、副編がMulkanとOei Tin Djinという体制でスタート、その後Marah Nurdin、SuskaとOei Tin Djinの三人が追放され、Chatib Salim、Nasrun ASとMadjid Usmanに交代した。追放の理由や時期は不明。日本の敗戦後、パダン日報のスタッフはスマトラン・ウトゥサン・デイリー(Sumatran Utusan Daily)を創刊した。

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