独断専行

(または「パダンの捕虜4」)

戦争中、最大の建設プロジェクトだった泰緬、その「正式」着工はビルマ側から42年10月1日、鉄道第5連隊の手で行われたとされる。しかしそれはそれ以前から始まっていた。ロームシャや捕虜の目から見れば「正式」着工だろうが「準備」だろうが、始まっていた。軍隊組織は上からの命令、「正式」な命令で動くものだと思われがちだが、当時の日本軍では必ずしもそうではなかった。泰緬は上からの命令で始動したのではない。現地部隊の手で勝手に始められていた。

先走りしたのは第二鉄道監部(のちに南方軍鉄道隊)であり、南方軍だ。泰緬を思いついたとされる第二鉄道監部の参謀長、広池俊雄によれば、その着想は25軍がマレー半島に上陸する以前に遡る(*1)。思いつくのは勝手だが、広池や入江俊彦参謀が現地踏査をやり、航空部隊を動かして航空写真を撮影させ、4月には机上でルートの選定を始めるところまで蠢動していた。広池らはシンガポール陥落前に二度、南方軍司令部に計画を具申したが却下された。さらに3月、サイゴンを訪れた大本営の杉山元参謀総長や服部卓四郎作戦課長にも直談判したが聞き入られなかった。上は首を縦に振らず、「正式」な命令もないまま、第二鉄道監部は4月に建設を独断で決断した(二松慶彦 『泰緬鉄道の話』 p74)。

乗り気にならない南方軍司令部の中で広池らの独断専行を後押したのは鉄道隊上りの参謀、岩橋一男だ。岩橋は42年3月、泰政府に鉄道建設の意向を伝えている。泰に「協力」を求める交渉が元満州拓殖公社総裁、坪上貞二大使の手で進められる一方で、4月、南方軍は泰に兵を送り始めていた(*2)。

カンチャナブリでは4月23日に鉄道建設に携わる日本軍の部隊が到着し、県では女子学校を宿舎に提供した。バンボーンでは5月8日に日本兵約30人が到着し、鉄道ルートの選定を行う部隊で今後1年間滞在する予定であると郡庁に宿舎の調達を依頼し、群がノンブラドック駅前の空き家を提供していた。このように、4月末から日本兵の泰緬鉄道沿線への駐屯は始まっていたのである。

柿崎一郎 タイ鉄道と日本軍 p212~3

結局、南方軍がゴーサインを出し(6月7日)、6月28日にはビルマ側のタンビュザヤ、泰側のノンプラドック(7月5日)に0粁標が建てられ実地測量に取り掛かる。4月からビルマで路線の補修や鉄道運営をやっていた鉄9第4大隊には6月中旬、南方軍から泰緬の建設準備命令が出され、7月下旬、キャンベラ丸でラングーンからバンコクへ移動する。

南方軍独自の判断による建設計画は大本営の命令の有無にかかわらず、着々と進められていた。

鉄9・4大隊記念文集 「光と影」 p18

南方軍が自らの判断で捕虜を好き勝手に「処理」していたことは、岩橋参謀が泰に鉄道建設計画を伝えたのと同じ頃、42年3月5日から19日にかけ、香港と上海の収容所を視察した俘虜情報局の手島寛の報告からも窺える。

南方総軍兵站計画に依り捕虜は現地軍にて処理し得る如く規定せられありとのことなるも本聖戦の意義と民族的団結とに鑑み整理に関し適確なる馮據を現地軍に指示せらるべきなり。

上海、香港俘虜収容所視察報告 p0940

広池は6月7日の大本営からの指示を受けた南方軍からの準備命令以前、建設に捕虜を使うことは考えていなかったと書く。

建設に俘虜を使ったのは明らかに大本営命令によるもので、南方軍には一部の責任があるかもしれないが、建設部隊(注、鉄道隊のこと)には、全然無縁で、責任は皆無だ。

広池 p 115

そしてそもそも捕虜を使うこと、そして捕虜虐待の責任は大本営にあるという主張を展開し、研究者のほとんどは広池に同調するようだが、大本営からの指示が出る以前、南方軍から準備令が出る以前から、捕虜を泰緬に使おうとしたことを示す事例がいくつかある(*3)。

チャンギから最初の捕虜600人が鉄道で積み出されたのは6月18日で泰緬の「準備」令はともかく、大本営の大陸指(6月20日)が出る2日前だった(24日、タイのバンボーンへ到着)。そのあと20日、22日、24日、26日と600人ずつ5本の列車で、この月だけで合計3千人が積み出された。この鉄道輸送は6月8日の「準備令」を受けたものと理解することもできるが、手際が良すぎないだろうか。

もっと説明のつかないのは、5月18日から6月1日にかけて南方軍参謀長の塚田から東京の軍務局長に送られた一連の電報だ。そこにはすでに泰緬鉄道の建設に2万の捕虜を使う予定だから、タイのこことここに収容所を作りたい、その旨よろしく取り図ってほしいと書かれている。捕虜を泰緬に投入することは、少なくとも南方軍のレベルでは既定の事実であり、広池の記述は事実に反する。泰緬に捕虜を使うことを決めたのは大本営ではなかった。

泰「ビルマ」連接鉄道所要の労務は俘虜2万に期待しあるを以て、ぜひ必要とす

42年5月18日付け、佐藤賢了軍務局長宛の塚田からの電報 泰国に俘虜収容所設置の件 p0436

そして塚田の電報が東京に送られる頃、4隻の地獄船の船団に積まれた5千人の捕虜はアンダマン海に差し掛かっていた。

建設に従事させる労働力としての捕虜の移動は、1942年5月14日、豪州軍A・L・ヴァーリ准将が率いる3000人のオーストラリア兵からなるAフォースが、シンガポールからモウルメインに出港したのを皮切りに始まった。マラッカ海峡の沖合で、ノーフォーク連隊のダッドリ・P・アプソープ大尉が率いる在スマトラ、イギリスPOW大隊がこれに合流した。

ジェイムズ・ブラッドリー『知日家イギリス人将校シリル・ワイルド』小野木祥之訳 明石書店 2001年 p 93

やがて、「泰緬に鍬入れ」した捕虜たちの連行は「準備」令が出る前から始まっていた。広池らの現地部隊と南方軍は「大本営の命令の有無にかかわらず」捕虜の移動を始めていた(*4)。

戦争中、ビルマの司政官だった浅井得一は広池らの独断専行を「のちにどれくらい役立ったかわからず、先見の明があった」と積極的に評価する。広池はもし大本営から命令がでなかったらどうするつもりだったのかと問われ、日露戦争の際、鉄道連隊の前身に当たる臨時鉄道大隊が京義線の測量を独断で始めたことに触れ、自らの命令違反を正当化する。

独断専行は兵家の常、責任とか全然頭にありませんでした。(中略)泰緬建設は少なくとも服部下田両将軍及び小生は必然となんの疑いもなく信じていました。然し私どもはやる決心でしゃにむに準備を進めました。

浅井得一 泰緬鉄道補遺 p6

独断専行が「兵家の常」なのかどうかはともかく、当時の陸軍ではそれが当たり前に行われていたことが読み取れる。「必然となんの疑いもなく信じる」のは誰にも許される。しかし、それが指揮系統を逸脱した行為であり、できない、許されないという判断は働らかなかった。それどころか、戦後、回想する時にも感覚は麻痺したままだった。呆れるしかないが、広池は泰緬の捕虜虐待で「裁かれるべき対象は(略)総軍以上の最高指導者層だった」と責任を上に転嫁する(内海愛子 『日本軍の捕虜政策』 p456)。

捕虜は泰緬の現場に「42年暮れから43年の1月にかけて移送された」(内海愛子 奥田豊己「泰緬鉄道 ー犠牲と責任」アジア太平洋研究センター年報 2018−2019 p28)のではない。

泰緬の鍵を握る使い捨てのヒト資源の手配はそれよりもずっと前から始まっていた。まだ軍政組織の管理に移される以前、「正式」な捕虜にされる以前、「正式」な収容所のできる前、すでに南方軍の「独自の判断」で現場に移送された捕虜の存在を忘れてはならない。「正式」な記録が残っていないというだけで、4隻の地獄船で運ばれた捕虜を記憶から消し去ることは許されない(*5)。

パダンの捕虜

とりあえずテナセリウム

テナセリウムから泰緬へ

岩橋参謀

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*1) 広池は41年10月に着想したとされ、それが定説になっている。すでに参謀本部でそれが研究されていたという記述もある(例えば泰側からの建設に関わった鉄道技師の軍属、二松慶彦 「泰緬鉄道の話」p74)。二松が現場の鉄9に配属されたのも、南方軍や大本営が「正式」に腰を上げる以前の5月のことだ。

「泰國雑感」『内外交通研究(176)』 1941年4月号 交通研究所 p 56

参謀本部のどの部署が具体的に研究を始めていたのか、誰が関わっていたのか二松は詳にしないが、おそらく桑原弥寿雄や下山定則などの鉄道技師が絡んでいたのではないか。

下山は41年1月から2ヶ月ほどタイに滞在し、鉄道の調査を行い「泰國雑感」を発表している(『内外交通研究(176)』 交通研究所 1941年4月号 p 55)。肩書きは鉄道調査部技師だ。この「雑感」の中で、下山は東京〜シンガポール鉄道について、すでに各国で予定されている路線が建設されれば「東京〜シンガポール鉄道が完成されたことになる。あるいは東京より鉄道によりインド洋に顔を出すことができるのである」と書く。そして「タイとビルマの連絡線も近き将来必ず実現する」と泰緬を予見するような書き振りで、少なくともそれまでに話し合われていたことを窺わせる。

下山は触れただけだったが桑原弥寿雄は具体的にいくつかのルートを検討し、その難易を比較し『連絡鉄道計画案』を42年2月16日付けで作成している。机上で作られたものだったが、鉄道省建設局計画課技師の桑原はやがて採用されるルートの建設に必要な労働者の数を「のべ750万」、工期については「1日あたり2万5千人」が確保できれば「1年」と見積もった。

*2)泰政府は外国による鉄道建設を簡単に承知しなかった。建設そのもの、完成後の運用や将来の帰属、捕虜の収容などをめぐり交渉はもめた。特に捕虜収容所の設置をめぐり、南方軍参謀長の塚田攻が業を煮やし苛立っていた。

泰国に俘虜収容所設置の件、泰側に一方的に申し入れをなせり。当方としては泰国がこれに異議を挟むべき筋のものにあらずと思料しあり

6月1日付け、塚田からの電報 泰国に俘虜収容所設置の件

結局、ノンブラドックとカンチャナブリの間、70キロほどを泰が建設すること、戦後の帰属を曖昧にすることで8月27日に合意した。この合意を受け、捕虜の搬送は9月、10月から本格化した。

*3) 例えば小林弘忠は『遥かな空』で「戦後、泰緬鉄道の戦犯裁判で俘虜虐待が問題となったのは、とどのつまりは、この大本営、命令発令者の南方軍の工事に「俘虜を充てる」ことに基因していたといえそうだ」(p51)と書く。

*4) 6月、泰側に送られた3千人の捕虜は鉄9第3大隊第5中隊に使役され、メクロン川鉄橋の建設などをやらされた。

*5)捕虜の移動は「俘虜労務規則」によったとする研究がある。

国内の移動には陸軍大臣の事前許可が必要だったが南方など「帝国外(内地、朝鮮と台湾を除く)」では事前許可はいらず、事後報告だけが求められた(俘虜情報局 俘虜取扱に関する諸法規類聚 p24)。

だが、泰緬鉄道建設のように、多くの捕虜を使用する重要な決定は陸軍参謀本部(杉山元参謀総長)と陸軍省(東條英機陸軍大臣)が、協議し決定している。

内海 日本軍の捕虜政策 p420

この「規則」によれば、遠隔地の現地軍は事実上捕虜を好き勝手に動かすことができたわけだが、内海は泰緬のように多数の捕虜を使う案件の場合、杉山や東條がその決定に関わったと言う。

しかし、この「規則」ができるのは43年5月のことで適用開始は8月以降だ。すでにその頃までに泰緬への捕虜輸送はほとんど終わっており、この規則が泰緬への捕虜動員のメカニズムを理解するには役立たない。大甘な「規則」が作られる以前の捕虜の移動、軍政の捕虜になる前の移動に杉山や東條が関わっていたのか。まだ不明な部分が多いが、少なくとも「俘虜労務規則」以前のことは「俘虜労務規則」では説明はつかない。