岩橋参謀

(またはパダンの捕虜5)

泰緬は上からの命令を待たず、第二鉄道監部(のちに南方軍鉄道隊)が「独断専行」で進めたことを広池俊雄は戦後になってもが誇らしげに認めている。だが、建設の中核である捕虜の使用についてはがんとして口をつぐむ。建設に捕虜を使うつもりはなかった、それを知るのは42年6月7日に大本営からの指示を受けた南方軍からの準備命令だったと主張する(広池俊雄 『泰緬鉄道ー戦場に残る橋』p111〜112)。

泰緬についてはすでにたくさんのすぐれた研究がある。しかし42年6月の「正式」発令以前の捕虜の移動に関しては驚くほど言及がない。ほとんどの研究者は捕虜の使用、そして捕虜の虐待は大本営からの命令だとする広池の証言を鵜呑みにするのか、大本営からの命令で、その年の10月以降に始まったかのように記述する。もちろん、それは連行された捕虜が記憶するように正しくない。大本営からの下命以前の5月にスマトラから送られた500人の英人、1500人ほどの蘭人捕虜、そして同じ船団でシンガポールから送られた豪人捕虜3千人(A部隊)たちを忘れることはできない(*1)。

広池の主張を額面通りに受け入れるためなのか、泰緬への最初の捕虜が船積みされた時のメカニズムについては不明な点が多い。まだ軍政組織としての収容所はできていない。捕虜は現地部隊の管轄に置かれており、現地司令官の一存で右から左に移すことができた。捕虜の移動に関しては「俘虜労務規則」が作られるが、その交付は43年5月のことで、適用は8月になってからだ。

南方における船舶輸送体制も改変されつつあった。開戦時には210万トンの徴傭船があり、やはり現地部隊にその運用が任されていたが、42年4月以降、物資の還送や「軍容刷新」で兵力を輸送するため順次、輸送船の解傭が始まり、南方では使える船が40万トンになる計画だった。これに伴い、船舶輸送の体系も改編されていく。南方地域に第三船舶司令部が置かれるののは7月になってからだ。5月の捕虜輸送は開戦後の戦闘体制から占領体制に移行する狭間で、抜け駆けのように行われた(*2)。

Margaret Coughlan時代の旭盛丸。
City of Vancouver Archives

42年5月、スマトラとシンガポールから5千人近い捕虜を輸送した4隻は地獄船の系譜の中でも異彩だ。それ以前の作戦地域や海軍地域からの後送とは異なり、その性格は9月から始まり10月以降本格化する輸送に酷似する。4ヶ月も前ではあったが、それは労務に就かせることを目的とした輸送であり、翌6月、泰側で鉄道輸送された3千人と並べることで一段とくっきりとする。目的地は泰緬だった。

広池は6月7日に南方軍と大本営から「準備令」が出るまでの「独断専行」についてかなり詳細に書き残している。それによれば、「独断専行の準備活動」は42年3月12日、ラングーンの戦闘司令所にいた服部暁太郎第二鉄道監から泰緬の準備命令が発令されて始まった。それを受け、3月15日から入江俊彦参謀が現地偵察を行い、予定地の航空写真が撮られ、地図が準備される。それらが4月20日過ぎには揃い、4月末から5月末にかけ、建設規定と付き合わせ、バンコクの司令部で建設計画が作成された(広池 p88〜)。

しかし、この期間の「独断専行の準備活動」について広池は全てを書いたわけではなく、重要なことをいくつか書き漏らした。ひとつは南方軍の策定した「(U)勇作戦に伴ふ鉄道運用計画」だ。中央は許可を出さなかったが、この中で泰からビルマへの鉄道の新設が初めて言及されていた。3月15日のことだ(叢書 大本営陸軍部(4)p317)(*3)。

この「鉄道運用計画」はビルマへの侵攻作戦(勇作戦)が前倒しされ、補給路の確保に頭を悩ませる中で作られた。作戦軍への補給を長期的に海路に頼るのは危険だとの判断のなかで南方軍は泰緬の建設をすでに真剣に検討していたことがわかる。これを策定したのは南方軍の中で、船舶や鉄道などを扱う第三課だった。

南方軍第三課では、この際泰緬鉄道を建設して、この問題を根本的に解決しようという構想を抱くようになった。鉄道主任参謀岩橋一男中佐はその可能性を主張し、また鉄道技師の中にも可能とするものがあった。

叢書 ビルマ攻略作戦 p 485(*4)

(岩橋は)「この際「泰緬連接鉄道」を建設して、この問題を根本的に解決しようと提議した。(略)この建設の意向は長勇少将(南方軍総司令部付)が東京へ南方軍の状況報告に行ったとき、大本営に伝えられており、また中央(大本営)から連絡のため、南方軍を訪問した大本営第3部長加藤鑰平(やくへい)少将ら関係者にもそれぞれ伝えられたが、誰も作業の困難性を理由に即座に賛成しなかった。そこでこれと並行して思い切ってクラ地峡に運河を掘った方がより有利ではないかとの想定の下に、岩橋参謀は情報を収集した。バンコクで得た記録によると、すでに以前英国人が踏査して断面図をつくっており、それによると中央付近に比高大なる山が二つあり、いかに力んでみても急場に間に合いそうもないということで断念した。

中尾裕次 泰緬連接鉄道建設決定の経緯 軍事史学 (軍事史学会)通巻98号 1989年9月所収 p33、吉川 p20

もうひとつ、広池が言及しないのは泰政府との間で行われた一連の交渉だ。泰緬は「鉄道運用計画」から1週間後の3月23日、初めて泰政府に伝えられて以降、いくつもの会合で建設計画は小出しに泰側に伝えられていく。しかし、奇妙なことに広池は自身の出席した4月13日の日タイ合同会議(吉川 p38)にも触れていない。最初に泰緬を泰側に伝えたのは南方軍第三課の岩橋一男中佐だった。

南方軍第三課鉄道主任の岩橋が日泰政府連絡所の所長に泰緬の計画を提示。この時、タイには技術者とロームシャ3000人の調達を依頼。日本側が日本人技術者と並び、捕虜の提供を申し出ていた。

NA Bo Ko. Sungsut 2. 4. 1. 2/1 “Chai Prathipasen Sanoe Prathan Kammakan. 1942/03/23”、柿崎『泰国内での展開(下)』p 51

岩橋は広池と陸士の同期(35期)で鉄道第一連隊の出身だ(広池は第二連隊)が「鉄道隊へ入ったのは私よりちょっと遅かったが、小隊長から鍛え上げられた鉄道マン」だった(広池  p49)。岩橋が泰緬鉄道の計画を知るのは開戦直前、41年12月5日ごろのことで、広池がサイゴンで南方軍参謀長の塚田攻に計画を進言した時だ。広池と塚田を繋いだのは岩橋で、岩橋自身は「さすが、すぐOKときたが、上の方がいけなかった」。かつて参謀本部の第三部(鉄道船舶の総元締め)の部長を務めた塚田だから、計画に理解を示すのではないかと広池は期待したが、その時は開戦を三日後に控えていたからか、なんの反応も示さなかった(広池 p49)。塚田が泰緬に乗り気になるのは、後述のように想定外の数の捕虜の処遇に取り組まなければならなくなってからのことだ。

広池は開戦後の12月18日、ハジャイで当時仏印関係政策担当、南方軍総参謀副長の長勇にも泰緬の計画承認を迫った。長は全く乗らなかったが、このお膳立てをしたのも岩橋だった(広池 p 69)。広池によれば、3月3日、バンコクを訪問した杉山参謀総長と服部卓四郎作戦課長に対しても具申した(広池 p49)。これに岩橋が絡んでいたのかどうかわからないが、岩橋が上記の「鉄道運用計画」を策定したのはこの頃だ。

岩橋は「独断建設をわれわれにけしかけたくらい」(広池 p113)、泰緬の建設準備を助けた。下記は航空写真撮影の手配と地図作成に関する記述だ。

独断でおっぱじめた建設準備だから、総軍司令官から飛行集団に命令を出してもらうわけにはいかない。勢い、非合法となったのは当然だった。ただ、それが私の依頼を受けた岩橋総軍参謀がやってくれたのか、あるいは服部司令官と小畑英良第5飛行集団長との了解事項として行われたのかは、明らかではない。服部・小畑両中将はともに私の同郷の先輩で、小畑中将は服部中将の一年先輩。両将軍は大阪幼年学校以来の竹馬の友だった。

広池 p92

地図の作成は南方軍で唯一、測量から製図までできる南方軍測量隊(加藤隊長)が行った。測量隊は編成された内地からシンガポールへ向かう途中、乗り組んだ船が被雷しバンコクに足止めされていた。

加藤隊長は、服部司令官よりも遥かに古参の鉄道隊大先輩で、私や入江も面識がある。頼んだところ、岩橋参謀の口添えもあったのか、快諾しれくれた。2週間足らずで、二万分の一地形図を建設両連隊の各中隊に配布する分まで作ってもらえたのは、全く幸運というほかなかった。

広池 P93

このように、広池は協力者として岩橋にことあるごとに言及しながら、岩橋の策定した「鉄道運用計画」や泰政府との最初の交渉については触れていない。広池は知らなかったのだろうか。わざと触れなかったとすれば、その理由は類推するしかないが、大本営からの下命の3ヶ月も前に、建設に捕虜を使う意向がはっきりと示されていたからではないだろうか(*5)。

広池が『泰緬鉄道ー戦場に残る橋』を書いた動機は石田栄熊や弘田栄治など捕虜虐待で戦犯として裁かれたものたちについて「果たして日本軍は戦犯として裁かれるような非道なことをしたのであろうか」(広池 p2)「この戦争犯罪人とは皆、祖国愛の最も高かった人々と言って差し支えないと思います」(広池 p3)と書き、その「汚名」を削ぐことだった。

戦犯問題も俘虜を使ったからこそ起こったとすると、国際法上いろいろ制約を受けているしろものを、なぜ使ったかの疑問が起こる。(略)俘虜使用は大陸指で発動し、南方軍でその人数と、使用と管理との関係を規定し(た)。(略)この建設に俘虜を使ったのは明らかに大本営命令によるもので、南方軍には一部の責任があるかもしれないが、建設部隊には、全然無縁で、責任は皆無だ。

広池 p 115

彼らには責任がない、責任は捕虜の使用を命じた大本営にある。それを強調したいため、現場では捕虜を使うことなど考えなかった、大本営のからの命令で初めて知ったと主張し、それ以前に捕虜の使用に言及した事実にわざと触れなかったのではないか。

しかし、泰緬の建設に捕虜を使うことは大本営が命令したことではない。最初から織り込み済みだった。捕虜の使用は人海戦術で取り組む泰緬の建設の中核だった。工事を始めたくてうずうずする広池らが募集に手間と時間がかかるロームシャよりも、すでに手中にする何万人ものヒト資源である捕虜に目を付けるのは自然なことだ。早期建設着手を目論み着々と準備を進めた広池らが労働力の手配を怠ったとしたら、むしろ、そちらの方が不自然だ。

「鉄道運用計画」が岩橋の手によって作られたのはシンガポール攻略からひと月、ジャワの陥落から1週間ほどの時期だ。スマトラの南部はともかく、北部は近衛師団が侵攻したばかりで、まだパダンには到達していない。しかし、南方軍はすでに想定外の数の捕虜を抱え、その処遇に頭を悩ませていた。南方軍は中央からの指示を待たずに現地人兵を「解放」し捕虜人口の圧縮を図るが、それでも「白人」捕虜は12万人ほどに上った。これらの捕虜に「無為徒食」をさせないためにどうしたらいいのか。頭を悩ませる南方軍にとって、このプロジェクトは渡りに船だったろう。

南方軍は当初、かなりの数を日本などへの「後送」を期待していたようだ。南方軍参謀の塚田から佐藤軍務局長宛の電報(5月18日)からもそれが読み取れる(また、この時点ですでにシンガポールの捕虜の少なくとも半分は泰緬のため「泰国へ移動」させる予定だったこともわかる)。そして、東京からの回答が「台湾へ約2400人、朝鮮へ約1100人」(陸軍次官から5月16日に南方軍に出された命令)程度だとしたら、とても問題の解決にはならない。

昭南島の俘虜は泰国へ移動のため半減し、またジャワは人口過剰にして土人俘虜などの救済使用さえ困難なるに鑑み、まずジャワの処理を依頼せるも陸亜密電第481号程度の後送ならば問題とならざるにつき、当方の後送希望意見は撤回す 

「泰国に俘虜収容所設置の件」 p0436〜0437

泰緬はビルマ侵攻の補給路作りとして構想され、検討されたが、同時に捕虜問題を解決するという意味合いもあった。機械をほとんど使わず、人の手だけで建設する計画はジャワやシンガポールで「無為徒食」する捕虜の働き口になる。「その難しさが明らかになるにつれ、南方軍は建設の可能性を疑うようになった( 叢書 ビルマ攻略作戦 p 193)」が、4月以降、再び乗り気になるのも、鉄道建設を捕虜の働き口としてとらえたからかもしれない。

広池は認めないが、泰緬の建設には最初から捕虜を使うつもりだった。それは大量の捕虜を抱え、その処遇に悩む南方軍にとっても好都合だった。推測に過ぎないが、その過程に南方軍第三課の岩橋が関わっていただろう。すでに手にするヒト資源を誰彼構うことなくどこへでも好きなだけ動かすことができるうちに「独断専行」で移送した。それが5月にテナセリウムに送られた捕虜輸送だった。具体的な経過も推測するしかないが、同じ頃、テナセリウムは南方軍から25軍に移管され、同地方の警備に25軍隷下の近衛師団から歩兵大隊が送られた。岩橋は歩兵大隊を輸送するための船を手配し、それに捕虜を便乗させたのかもしれない(*6)。

スマトラを統治する25軍の参謀副長兼軍政部長(〜42年7月)の馬奈木敬信と岩橋はその前年7月から開戦間際まで、仏領印度支那「タイ」国間国境確定委員会の同僚であり、サイゴンで同宿した間柄だった(*7)。

シンガポールの豪人捕虜3千人はともかく、なぜ、スマトラだったのか。それはその後に設置される(軍政の)捕虜収容所の配置を先取りし、整理統合という意味合いがあったのかもしれない。スマトラにはシンガポールの馬来俘虜収容所の分所として、島の北(メダン)と南(パレンバン)にそれぞれ1500人程度の収容を南方軍は望んだ。

パダンの捕虜

とりあえずテナセリウム

テナセリウムから泰緬へ

独断専行

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*1)例えば吉川利治は「連合軍が示す統計」として、シンガポールからA部隊の3千人がビルマに送られたこと、そしてスマトラから英人捕虜、蘭人捕虜が送られたことに短く言及するが、泰緬の建設の始まりだったという書き方ではない(『普及版 泰緬鉄道 機密文書が明かすアジア太平洋戦争』p116〜117)。

また内海愛子はこう書く。

多くの捕虜を使用する重要な決定は、陸軍参謀本部(杉山元参謀総長)と陸軍省(東條英機陸軍大臣)が協議し決定している。建設命令は、参謀本部で起草され、発令された(1942年6月20日、大陸指)。

建設命令が発令され、アジア人労働者と捕虜の動員が決まった。

内海愛子 『日本軍の捕虜政策』 p420

小林弘忠は「戦後、泰緬鉄道の戦犯裁判で俘虜虐待が問題となったのは、とどのつまりは、この大本営、命令発令者の南方軍の工事に「俘虜を充てる」ことに基因していたといえそうだ」(『遥かな空』 p51)と書く。

*2)南方作戦には210万トンの輸送船が徴傭されたが、30万トンが解傭された。その後は船舶輸送司令部で140万トン、南方軍は40万トンが割り当てられた。

のちに再徴傭され、横断鉄道に最初の捕虜をジャワから運んだ中華丸も6月18日に解傭された。やはり再徴傭されジャワからパレンバンへ蘭人千人と英人500人の捕虜を輸送する仏蘭西丸も5月16日に解傭された。

船舶運用の体系については第一復員局がまとめた「外地在住船員の管理及び船舶関係資料」というファイルの中にある「輸送処理規定及び系統」に見ることができる。戦後、47年2月28日の日付が入り、まとめたのは陸軍の嬉野事務次官。捕虜輸送に言及することから、捕虜の輸送に関する戦犯裁判の資料としてまとめられたものだと思われる。

これを見ると、開戦から42年7月までの臨戦体制では現地の作戦軍司令官が船の運用を指揮できたことがわかる。「恒久体制」への移行の過程で、船舶輸送司令部は6月、サイゴンの戦闘司令所を撤収し宇品に戻った。

これに伴い7月7日、船舶輸送の指揮体系が改編され、それまでの船舶輸送司令部が廃止され、軍司令部と同格に格上げされた船舶司令部が創設された。大本営直轄の輸送を担当する第一、支那方面を担当する第二、南方担当の第三船舶輸送司令部が作られた。岩橋は南方軍第三課から新設された第三船舶輸送司令部に転出し、これが大きな痛手となったと広池は書いている。

*3)南方軍がビルマへの補給路の検討を始めるのは41年12月末、大本営からビルマ侵攻の前倒しが指示されてからだ。12月21日、参謀本部作戦課長の服部卓四郎がサイゴンに飛来しビルマへの侵攻を指示する「第15軍作戦要領案」を南方軍に提示した。明けて42年1月22日にはビルマ作戦に関する命令が出る(叢書 ビルマ作戦 p 72〜73)。

それを受けて南方軍は2月3日、侵攻の具体的なプランを示す「(U)勇作戦計画(案)」を作った。15軍に対しては2月9日、モールメンからラングーンへの侵攻命令を出す。まだシンガポールが陥落する前のことだ。東京の参謀本部第一課(作戦担当)は2月27日、ビルマ侵攻の勇作戦を含む「第三期南方軍作戦計画」を策定した。そして3月15日の「鉄道運用計画」が作られた。

*4)66年10月に始まった戦史叢書シリーズの5番目で出版されたのは67年5月。執筆者は元ビルマ方面軍作戦主任だった不破博。不破はシリーズ最初の『マレー侵略作戦』や「インパール作戦(15)』『イラワジ会戦(25)』『シッタン・明号作戦(32)』など共著を含め、ビルマ戦線に関するものを中心に7冊の編纂に関わった。

*5)「鉄道運用計画」には次のように書かれている。

泰緬間の新設鉄道はケオノイの河谷を通して両国鉄道を連接す。

建設期間は約1ヵ年を目処とし南方軍鉄道隊司令官の担任とするもタイ国側をして作業に協力せしめ我が鉄道部隊運用の自由を保持するに努む。

そして建設には次の布陣が想定された。

長 南方軍鉄道隊司令官

第二鉄道監部の一部

第一鉄道材料廠の一部

第4特設鉄道隊(工作隊の一部欠)

第5特設鉄道隊の工務及び橋梁隊

陸上勤務隊 1

建築勤務隊 1

第7野戦作井隊

右のほかタイ国鉄道官警並び従業員、俘虜及びタイ、マレー、ビルマ徴用人夫など約2万人を使用す。

(U)勇作戦に伴ふ鉄道運用計画

*6)広池は軍政の収容所ができる以前、鉄道連隊の管理のもと、捕虜を使ったことについて、次のように記述する。

それだと言って10月までポカンとして、俘虜の来るのを待っていたわけでもなかった。(略)総軍も、建設隊が自らの手で管理するならという条件付きでこの希望はいれてくれた。しかし、俘虜を使う部隊が片手間で管理できるのはせいぜい5千人が限度だという。そこで、俘虜到着の実情とにらみ合せて、「俘虜、労務者受け入れ及び糧食準備計画」を立てることになった。

タイ俘虜収容所がその機能を発揮できるようになった10月中旬までの約4ヶ月間、鉄道隊が管理した俘虜は、タイ側3千人、ビルマ側1240人で、6月末から7月初めにかけて送られてきた。その最初の受け入れの時の印象だが、これはなにしろ”招かざる客”というにつきた。

広池 p 135~6

広池は「招かざる客」をどこから連行したのか触れていないが、タイ側の3千人はシンガポールから鉄道で輸送された。広池は6月18日ごろ、俘虜収容所が機能するようになるのが10月ごろと聞かされ、「ぽかんとして」いるわけにもいかず捕虜の使用を考えたと書く。しかし、第一陣の捕虜600人がバンポーンに向けシンガポールから貨車で積み出されたのは6月18日のことだ。手際がよすぎないだろうか。このあと、月末までに5本の列車で合計3千人が送り込まれた。

ビルマ側の1240人についてはどこから連れてこられたのか解明する研究書が少ない。広池は6月28日、タンビュザヤに0キロ地点標が打ち込み、泰緬を着工した神谷支隊(鉄5第3大隊か?)の副官、佐藤勤中尉の言葉を次のように引用する。

「私が受領指揮官となって『イエ』北方35キロ『ニッカエン』付近で和蘭俘虜を、同地の警備歩兵から受領した。少佐以下1240名で、そのうち4名は佐官だった。」

広池 p 136

佐藤の述懐が正しければ1240人は「和蘭俘虜」だった。英領だったビルマには当然、オランダ軍は展開していなかった。それではこれらのオランダ人捕虜はどこから来たのか。広池は触れないが、スマトラのパダンや北スマトラで投降し、極星丸でベラワンから運ばれ、5月20日、ビルマ最南端のビクトリア・ポイントに降ろされた捕虜たちだろう。

佐藤らに捕虜を受け渡した「現地警備歩兵」とは近衛師団歩兵第3連隊第一大隊だろう。この地域の警備にあたるため、捕虜と同じ船でテナセリウムに派遣された。

*7)国境確定委員会は仏領印度支那と泰の間の紛争を日本がとりなし、東京条約が結ばれた後、両国間の国境の引き直しのために設置された。矢野眞委員長、井上総領事とともに岩橋、馬奈木らが委員に任命された。日本委員会の事務所はサイゴンのホテル・コンチネンタル、その後はテスタール街に置かれた。

岩橋は横浜から空路で41年7月17日に離日、20日サイゴンに着任、その後離任するまで馬奈木とともにエイリオ・デ・ベルニュ通り32番地(32 rue Eyriaud-des-Vergnes、現在の通りの名前はTrần Quốc Thảo)に投宿した。当時の建物は今でも残っているようだ。

馬奈木は開戦前の11月6日に離任(→25軍参謀副長)、岩橋は12月10日に離任(→南方軍参謀)した。同じ頃、馬奈木と同郷で同期の長勇もサイゴンにおり、そこで開かれた「陸士第28期会」の写真で二人を確認できる。

8月21日に開かれた第一回確定委員会の模様は日本ニュースで報道された。馬奈木や岩橋、泰側からはルアン・シッド・サヤマカーレ主席以下の各委員、仏印側からはド・ランス主席以下の各委員が映る(ニュース映像65)。

岩橋は12月8日未明に行われた鉄道第9連隊のシンゴラ上陸の際にも一役買ったようで、第4大隊第7中隊の飯笹恒によれば、暗闇の中で上陸用舟艇に乗り込む鉄道兵を上陸地点に導いたのは「関さん」という現地在住の日本人のお婆さんが手に持つ懐中電灯で、それを手配したのは岩橋一男だった。

日本軍の上陸は、岩橋一男中佐(当時日本を代表して泰仏印国境紛争のため、確定委員として現地にいた鉄道隊出身将校)に指示されて、在日本人会の人々は良く承知していたのだ。

飯笹恒 「感激の清酒2ダース」『光と影』 p 115

ただし、4月にシンゴラ領事館を開設した勝野俊夫は「シンゴラの在留邦人は(略)ドクター瀬戸夫妻に茶碗屋が家族三人。それにゴムや錫買い入れの商人を入れても10人足らず。なにせ、あの半島の600キロ近い長さのシンゴラ領事館の管区に、あちらの町に3人、こちらの部落に2人と、全在留邦人を合わせても50人そこそこだった」と書く(畠山清行 保阪正康編 『秘録 陸軍中野学校』 新潮文庫 p 344)。シンゴラに「在日本人会」があったのかどうか。「関さん」というお婆さんが当時シンゴラ付近にいたのかどうか、わからない。

また、勝野や瀬戸によれば領事館の無線機が機能せず、25軍の上陸の時間は事前に知らなかった。「関さん」がどうやって上陸地点で懐中電灯をかざすことができたのか。飯笹の記述にはいくつかの疑問がある。