とりあえずテナセリウム

(または、「パダンの捕虜その2」)

パダン監獄を出発したスマトラ大隊500人の英人捕虜は5月16日、ベラワンで船に乗せられた。5870トンの輸送船は皮肉にも英蘭丸(英語表記はイングランド・マル)と呼ばれた。英蘭丸は1917年から20年にかけて川崎造船で作られた75隻の大福(たいふく)丸型貨物輸送船の一隻だった。長さおよそ118メートル、幅16メートルほどの大福丸型輸送船は44隻が陸軍に召し上げられ、すでにマレーやジャワ、ラングーン侵攻に兵士や兵器、補給を運んでいた(*1)。

<地名や船の航跡は下記、概念図参照>

英蘭丸(England Maru)
State library of NSW

捕虜は自分たちの運ばれる輸送船を「地獄船」と呼んだ。大福丸型の輸送船では英蘭丸を含め10隻が地獄船に使われたが、42年5月の英蘭丸とせれべす丸の航海がその最初だった(*2)。

英蘭丸とともにベラワンから蘭印人捕虜1500人(1200人という説もある)を積む旭盛丸も出港した。旭盛丸が地獄船に使われたのはこの一回だけだ。

この2隻にシンガポールから捕虜を積むせれべす丸と豊橋丸が合流し、4隻の船団は2隻の護衛艦(海防艦?)に伴われマラッカ海峡を抜けると、半島を右手にゆっくりと北上した(大福丸型、豊橋丸も最大速度が14ノット)。せれべす丸と豊橋丸にはそれぞれ豪人捕虜千人、2千人が積まれていた。この3千人はあわせてA部隊(ヴァーレー准将の指揮)と呼ばれた(*3)。

叢書 ビルマ攻略作戦p 249
挿図27

5千人近い捕虜は水や食べ物もろくに与えられず、便所もほとんどない劣悪な環境で、蚕棚の並ぶ暗い船倉に押し込まれた。家畜同然、もしくは軍馬以下の環境、それが地獄船の定めだった。捕虜には知らされていなかったが、船団はビルマに向かっていた。

船団は5月20日、ビルマ最南端のビクトリア・ポイントに泊まった。ここで旭盛丸から蘭印人、A部隊の豪人1017人(グリーン部隊)が豊橋丸から下ろされ、飛行場の建設をやらされた。

船団は北上し、24日、メルギーに到着。英蘭丸からスマトラ大隊、せれべす丸から豪人千人(ラムゼー部隊)が下された。捕虜はここでも滑走路の建設をやらされれ、8月10日、タボイに送られた。

地獄船の船団は26日、最後の泊地タボイに到着。豊橋丸からA部隊の残り、983人の豪人(アンダーソン部隊)が下ろされた。

マレー半島の付け根、タイとアンダマン海に挟まれたテナセリウム地方には42年1月下旬、15軍が侵攻した。沖支隊の素早い侵攻に虚をつかれ、英印第17歩兵師団が敗走しため、テナセリウム地方はそれほど戦災にあわず、イエとモールメンを結ぶ鉄道は占領から2週間で復旧した。飛行場もほとんど無傷で、接収後、ラングーン空爆に護衛機を発着させることができた(「叢書 ビルマ作戦鉄道戦史」p 1857)。

ラングーン陥落の3月以来、南方軍はこのテナセリウム地方を直轄とした。メルギー沖に「連合艦隊を収容できるような大泊地」があるという触れ込みに、セイロンを狙う艦隊基地として有望視したからだ(叢書 ビルマ攻略作戦 p247〜)。

5月にスマトラとシンガポールから送られた5千人の捕虜は、進撃拠点として、テナセリウムの飛行場を整備することが目的だったとも考えられる。

しかし、セイロン攻撃そのものがドイツの西アジアへの快進撃をあてにしたもので、その雲行きが怪しくなると戦略的価値も急速に萎えてしまう。労務目的では最初の地獄船の船団が仕立てられる頃、南方軍は軸足をすでに移していた。テナセリウムは25軍に移管され、5月15日にはタボイに25軍の軍政支部が開設された(富集作命甲第297号)(*4)。

南方軍の関心はともかく、テナセリウムの飛行場そのものの戦略的な価値はどうだったのか。当時、どれほど重要視されていたのか。戦略的な基盤として整備を急いでいたのか。この時期に5千人の捕虜を投入するほど、差し迫っていたのか。

南方要城陸軍所要飛行場一覧表
叢書 陸軍航空 作戦基盤の建設運用 P211

開戦から4ヶ月ほどたった42年4月3日、南方軍がまとめた航空基地「設定要項」がある。その後の航空作戦の基盤をどうするか、どこにどんな飛行場を置くか、それらをいつまでに整備するのか。この「設定要項」を見る限り、捕虜が建設に投入されたテナセリウムの飛行場はどれも特に重視されてはいない。

ビルマは重点地域だったが、航空部隊のインフラ整備が急がれたのは、中国やインドを睨み、英軍や中国軍と対峙する北部だ。南部テナセリウムの飛行場には全部(乙)が並び、緊急度は低い。特に拡張や整備を急ぐ扱いではない。むしろ、捕虜があとにしたスマトラのパダンやメダンの飛行場には(甲)の印がつき、緩急の度合いからすると、そちらの方が差し迫っている。

戦略的な価値が色褪せ、それほど火急とは思われない滑走路の延長工事のため、なぜ、この時期、5千人もの捕虜が運ばれてきたのか。腑に落ちない。何か、別な目論見があったように見える。パダンで捕まった捕虜は、とりあえず、テナセリウムに置かれた。

南方軍はもともと、5千人をどこへ送るつもりだったのか。また、どうしてこの時期に動かされたのか。残された史料を手がかりにパダンで投降した捕虜の行方を探る。

パダンの捕虜

テナセリウムから泰緬へ

独断専行

岩橋参謀

<<<<<<0>>>>>>

*1)他の大福丸型輸送船の地獄船はうめ丸(建造時は坡土西丸)、すまとら丸、しんがぽーる丸、仏蘭西丸、長門丸、ぱしふぃっく丸、第一眞盛丸(?)、新嘉坡(昭南)丸。

*2) 5月に輸送された捕虜が船団を「地獄船(hell ship)」と呼んだのかどうか、定かではない。ひどい境遇には違いなかったが、以後に比べればいくらかマシだったようで、この航海中に死者は出なかった。

内海愛子によれば42年8月ごろ、地獄船では一坪あたり2人の空間が割り当てられたが、年末には6人、43年になると8人近くが押し込められた(「日本軍の捕虜政策」 p302)。

輸送船は連合軍潜水艦、航空機の格好の標的となり、危険はどんどん高まっていた。日本の制空・制海権の喪失が決定的になるのは42年6月のミッドウェイ海戦における敗北だが、それ以前も決して安全だったわけではない。

テナセリウムに捕虜を下ろし、シンガポールに(護衛なしで)向かう4隻の船団はマラッカ海峡で英潜水艦トラスティ(HMS Trusty)に襲われ、6月4日、豊橋丸が沈没した。ミッドウェイ海戦以前、すでにこの航路が危険にさらされていた。

*3)蘭印人1200(〜1500)人を積んだ旭盛丸はパダンから15日に出港したという記述もある(イギリスの極東地域戦争捕虜のサイト、FEPOWサイト)。オランダのサイトによれば、旭盛丸はメダンから16日に出港した。

また、せれべす丸はベラワンの沖合で日本軍将兵350人を積んだ、という記述もある。これはこの船団と一緒に運ばれた近衛歩兵第3連隊(近歩3)第一大隊の一部だろう。第一大隊の4つの中隊はイエ、タボイ、メルギー、ビクトリア・ポイントに分駐し、やがて鉄道隊に受け渡すまで、これらの捕虜を管理した(岩川隆『孤島の土となるとも:BC級戦犯裁判』講談社 1995 p260)。

テナセリウム地方が25軍に南方軍から移管された時期はちょうど、25軍隷下の近衛師団歩兵第3連隊第一大隊が5千人近い捕虜とともに送られた時期と重なる。25軍が近衛師団の兵員を送るのに便乗し、捕虜を輸送したものと考えられる。

*4)セイロン沖海戦(4月5日から9日)は「凱歌高しインド洋」(4月28日の日本ニュース99号)と報道された。その後、主に海軍の企図したセイロン攻略作戦(11号作戦)は、ドイツの西アジアへの進撃に連動するものと位置付けられたもので、それが望み薄になると棚上げされた。大本営は42年6月29日「外郭要地に対する作戦準備要項」で、南方軍に作戦の準備を指示。研究を続ける、と将来への含みを残したが、事実上は棚上げだった。

とりあえずテナセリウム” への6件のフィードバック

コメントを残す