テナセリウムから泰緬へ

(または「パダンの捕虜その3」)

42年5月、4隻の地獄船でテナセリウムに運ばれた5千人は泰緬の建設用に輸送された最初の捕虜だった。

ビルマ側は9月に捕虜4234人を使って起点のタンビザヤから建設道路の鍬入れを行い、10月に下部建築に着手している。

内海愛子 日本軍の捕虜政策 p425

次にビルマ側へ捕虜が増員されるのは10月下旬のことで、泰緬の「鍬入れ」をさせられたのはすでにテナセリウムに送られていた捕虜だ(*1)。最終的にビルマ側には1万5千人近い捕虜が送られたが、その三分の一にあたる5千人は計画が「正式」に発令される以前に移送されていた。

鉄道隊は1942年7月初めまでにすでにタイ側に三千人、ビルマ側に千二百四十人の捕虜を動員して建設作業を開始していた。現地軍が使用する捕虜(軍令捕虜)は、すでに述べたように陸軍大臣の権限と責任外であり、泰俘虜収容所に記録されていない。

内海愛子 日本軍の捕虜政策 p445

広池は軍政の組織、役所としての泰第三分所ができ、機能するようになる「10月中旬までの約4ヶ月間」鉄道隊がタイ側で3千人、ビルマ側で1240人の捕虜を管理したことを認めている。彼らの到着は「6月末から7月初めにかけて」とも書く(広池俊雄 「泰緬鉄道 戦場に残る橋」 p 135)。ビルマ側の1240人について「同地の警備歩兵から受領した」神谷支隊(鉄5第3大隊か?)の副官、佐藤勤は次のように述懐する。

「私が受領指揮官となって『イエ』北方35キロ『ニッカエン」付近で和蘭俘虜を、同地の警備歩兵から受領した。少佐以下1240名で、そのうち4名は佐官だった。鉄道は、英軍退却の時、破壊されたままだったので、テンユ(タンビザヤ南方約30キロ)付近まで、約20キロを徒歩行軍の後、軽列車で、『タンビザヤ』に着いた。」

広池俊夫 泰緬鉄道 戦場に残る橋 p 136

佐藤の記述が正しければ、この1240人はオランダ人捕虜だった。ビルマは戦前イギリスの植民地であり、この地域には英印軍第17師団が配備されていた。オランダ人捕虜はどこからやってきたのか。佐藤も広池も詳らかにしないが、「和蘭俘虜」はスマトラのパダンや北スマトラで投降し、5月半ば、旭盛丸で運ばれたものたちだ。5月20日、ビルマ最南端のビクトリア・ポイントに降ろされた捕虜たちは、テナセリウムの警備にあたる目的で同じ船団で輸送され近衛歩兵第3連隊(近歩3)第一大隊の監視から神谷支隊(神谷桂治の率いた鉄5第3大隊?)に渡され、タンビュザヤに運ばれた。神谷支隊は6月28日、ここに0キロ地点標を打ち込み測量などの建設工事に着手する。「和蘭俘虜」はこうしてスマトラから運ばれ、泰緬に「鍬入れ」し、最初の飯場、ウエガレに収容された(*2)。

現地軍の一存に任された「非公式」な捕虜が4隻の地獄船でテナセリウムに移送されたことは日本側には記録がない。使役する側では記録を取らず、その必要もなく、あったかもしれない記録は敗戦のどさくさに、たぶん、廃棄されたのだろう(*3)。

「泰俘虜収容所」ができる8月15日以前、「軍令」の捕虜の記録は残されていないが、忘れることはできない。使役された側の捕虜は自らの境遇を書き留めた。度重なる抜き打ちの検査で発見されれば激しい体罰が加えられることを承知で、隠しもつ鉛筆でノートに書き留めた。これらの日記や捕虜の記憶は戦後、まとめられ出版されている(*4)。

豊橋丸でビクトリア・ポイントに運ばれた1017人の一人、アレック・ホジソン(Alec Hogdson)は解放されるまで日記をとり続けた。捕った当初は日記をつける捕虜もいたが、日本軍はそれを禁止し、見つけたら没収し、厳しい罰を加えた。タバコの巻き紙が不足してくると、手帳を破りタバコを巻いて吸ってしまうこともあった。だから、解放まで日記をとり続けたものは少ない。ホジソンは危険を冒し、制約の中でも地獄の暮らし隠し持った鉛筆で手帳に書き続けた。なぜ、そこまでして記録し続けたのか。想像するしかないが、自分の置かれた境遇を後世に伝えなければならない、忘れさせてなるものか、そんな思いがあったのだろう(*5)。

Obey, pray and hope(逆らわず、祈り、希望を失うな)」と名付けられたホジソンの日記にはテナセリウムの様子が次のように描かれている。

ビクトリア・ポイントでは当初、朝10時から12時半まで、午後は3時半から6時半まで、1日5時間半、週6日の労働だった(5月28日)。理由は不明だが、午後の作業は2時半〜5時半に変更された(7月30日)。日曜のほか、雨の日も作業は休みになった。テナセリウムは世界でも有数の多雨地域で、しかも捕虜のいた時期は雨季(5月から9月)にあたる。ホジソンの日記にも「今日も雨、仕事は休み」という記載が並ぶ。休みの日曜にはクリケットの試合をすることもあり(6月21日、7月5日、19日、8月2日)、演芸会も開かれた。労務の厳しさだけをとっても、泰緬とは比較にならなかった。

ここで捕虜は滑走路の整備、拡張作業をやらされた。英軍が逃走する際に敷設した地雷の処理が済むと、爆撃でできた穴を埋めていった。円周10メートル、深さ3メートルほどの穴が18あり、それをトラック4台とカゴで土砂を運び埋めていった。それが終わると400メートルの滑走路を倍の長さに延長することを命令され、満足な道具もなしに測量をやり、整地し砂利を敷き詰めた。

食事も待遇も酷かったが、ホジソンは日記に「飯がうまい」と書く日もあった(6月1日、23日、7月2日など)。食事は米が主で、野生のヤクの肉が手に入れることもあれば、支払われた賃金(1日あたり25セント)で収容所内に設けられた酒保で卵や牛乳、干し魚、果物、葉巻などを買い補うこともできた。

捕虜の脱走に神経質だった日本軍はビクトリア・ポイントでも脱走者を容赦なく処刑した。しかし、それ以後に比べると日本兵はまだ人間らしい顔を持っていたようで、病死した捕虜の葬式に参列したり(6月26日)、捕虜が出発を波止場に並び「まるで親戚を見送るように」別れを惜しんだ(8月13日、9月3日)(*6)。

捕虜は8月以降、テナセリウム各地から順次タボイなどに送られる。ホジソンのグリーン部隊の豪人は8月15日、タボイに連行された。メルギーにいた英人捕虜は8月10日、100人も乗れば一杯になる小さな輸送船、龍丸(500トン級)に詰め込まれ、タボイに送られた。捕虜はそこで港湾荷役、道路整備、滑走路の整備などをやらされたが、実際には泰緬への輸送を待つ日々だった。目的地は最初から泰緬だった。

受け入れ準備が整うと、テナセリウムに送られ待機する「4234人」の捕虜は、タンビザヤから5キロほど毎に作られた5つの飯場に収容されていった。

ホジソンらは10月20日、タボイからムールメン、タンビザヤを経て、テットコーに送られた。

「スマトラ大隊」の英人捕虜は10月21日、タボイを出立しコンノコイに送られた。それまでの半年間にメルギーで12人、タボイで5人が命を落とした。捕虜の暮らしはどこも凄惨なものだったが、テナセリウムはそれでもマシな方だった。捕虜は記憶する。地獄はまだ始まったばかりだった(*7)。

パダンの捕虜

とりあえずテナセリウム

独断専行

岩橋参謀

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*1)ビルマ側への第二陣の捕虜は10月14日、前橋丸で1800人がシンガポールから運ばれた。22日、ラングーン到着。そこで病人が降ろされ、残りは山形丸でモールメンに運ばれた。24日到着。ほとんどはジャワから送られた豪人(ウィリアムス部隊)だったが、ジャワ沖で沈められた巡洋艦パースやヒューストンの生き残りの米人の他、蘭印人も含まれていた。400人が旺洋丸(ジャワ部隊3)で10月1日、1500人は乾坤丸(ジャワ部隊4)で10月8日にジャワを出港した。

*2)叢書 ビルマ攻略作戦によれば日本軍は3月7日までにビルマで1706名の捕虜を獲得した(p 257)。この捕虜が「ビルマ側の1240人」だったかもしれないが、蘭人ではない。しかも英印軍第17師団には捕虜に関する言及は見当たらない。

敗戦直後、45年9月20日に設置された「俘虜関係調査委員会」がまとめた「泰緬連接鉄道建設に伴う捕虜使用状況調査報告書」にもビルマの捕虜が言及されるが、1240人がどこからどういう経路でビルマ側の飯場に送り込まれたのか、言及されない(p 1998)。

当時チョンカイにいた医療将校のロバート・ハーディによれば、44年7月28日、これらの蘭人捕虜が豪人捕虜などと到着する予定だと書かれている。「彼らは42年5月、船でシンガポールからこの鉄道の一番端のところまで連れてこられ、ビルマ経由でシャムへやってきたのである(ロバート・ハーディ 『ビルマータイ鉄道建設捕虜収容所 医療将校ロバート・ハーディ博士の日誌1942~45』 河内賢隆・山口晃訳 而立書房 1993 p216)。

北緯16度以南のテナセリウム地方はもともと15軍の作戦地域だったが、3月20日、南方軍は直轄地域とし、警備を南方軍鉄道隊司令部(バンコクの石田部隊?)に担当させた。中部ビルマ作戦を展開する15軍を支援するためだったが、この地域をビルマから分離、「失地」として回復を目論むタイへの割譲も頭にあったようだ。マレーを含め、将来「帝国領土」とする思惑もあった。ビルマ作戦の終結後の5月20日、テナセリウムは25軍に移管され、近衛歩兵第3連隊の第一大隊がその警備にあたるため、捕虜と一緒に輸送された。

*3)作戦部隊の管理する「軍令の捕虜」から陸軍大臣管轄の「軍政の捕虜」へという自らの身分の変化について「監視が朝鮮人に代わった」「詳細を登録された」などの記述があるだけで、捕虜自身はほとんど気づかなかった。

泰俘虜収容所など南方の収容所は開戦後、41年12月23日に交付された「俘虜収容所令」に基づいて6月27日に編成された。発足は各地の収容所長となる幹部候補者の訓練が7月7日と8日、俘虜情報局で行われ、彼らが現地に到着した8月中旬だ。「正式」な収容所の発足に伴い、南方軍は「泰俘虜収容所俘虜取締規則」「泰俘虜収容所外労役取締規則案」を8月15日付けで作り、寺内寿一司令官の名前で管轄の東條英樹陸軍大臣に報告している。

しかし収容所が機能を始めるのはまだそれからひと月ほど後のことで、第三分所の捕虜の「銘々票」に記録される登録日はほとんどが9月15日や25日だ。南方の収容所の看守にあたる予定で集められた3千人以上の朝鮮人は6月15日からほぼ2ヵ月間、釜山で「訓練」を受け、現地に到着したのは9月に入ってからだった。南方軍馬来爪哇俘虜収容所留守名簿によれば、第一分所(メダン)に140人、第二分所(パレンバン)に65人が配備された。

これらの軍属は収容所の看守として集められたものの、「訓練」にあたった釜山西面臨時軍属教育隊(隊長はのちに朝鮮俘虜収容所長となる野口譲)は捕虜取り扱いに関し、国際条約を教えることはなく、代わりに「大和魂」「軍人勅諭」「戦陣訓」などを激しい体罰を通して叩き込んだ。この「訓練」で暴力と共に注入された捕虜を見下し蔑視する態度が捕虜虐待の大きな原因となった。

*4) スマトラで捕獲された英人捕虜500人の足跡は大隊指揮官のアプソープの日記などをもとに編まれ「The British Sumatra Battalion」として出版されている。豪人捕虜の日記は「日本に囚われた捕虜(prisoners of war of Japan)」英人捕虜の凄惨な経験はCofepow(Children of the Far East PoW)」などで語り継がれている。

*5) イギリス生まれ、西オーストラリアに移住したホジソンは1980年に他界する前、戦争の話や捕虜の経験を話すことはあったが、命をかけて書き留めた日記について触れたことがなかった。遺品のなかから見つかった手書きの日記は孫娘の手で活字におこされ、2010年から上記の「日本に囚われた捕虜(prisoners of war of Japan)」サイトに掲載されている。

*6)捕虜は全く情報から遮断されていたわけではなかった。さまざまな経路からもたらされる情報は「連合軍がどこそこに上陸した」「英軍がラングーンを奪回した」「ドイツが降伏した」など、大抵は楽観的観測に基づくガセばかりだったが、驚くほど正確な情報も素早く手にしていた。4月18日のドゥーリトル東京初空襲を6月15日には知り、6月29日には前月の珊瑚海海戦の模様を知った。同じ日、自分たちを輸送した豊橋丸がその帰路、潜水艦の雷撃で沈められたことも日本兵から聞かされた。

*7)スマトラ大隊は泰緬の貫通までに140人以上を失い、190人は怪我や病気で沿線カンチャナブリの「病院」収容所にいた。路線の保守に40人ほどが残され、まだ働けるとみなされた120人ほどは44年3月、日本へ送られる予定で編成された「51組」に組み込まれ、サイゴンに送られ、そこで日本の敗戦まで収容された。