河西定雄:つかのまの建設隊長

横断鉄道に関わりながら、スマトラの土を踏むことがなかった人間もいた。鉄8は「横断鉄道建設のため」という目的で編成されながら、その主力の第2大隊はシンガポールから行き先が二転三転し、結局マラッカ海峡を渡ることなくフィリピンに転進した(*1)。

河西定雄もそうだ。42年半ば、25軍が横断鉄道の建設を決め、「本建設もぜひ軍政機関の手に委ねたい」(笠谷孝『富の歩み』p199)と、国鉄技師による建設隊が編成され、その隊長を任されたのが河西だった。

河西についてはスマ鉄に関する唯一の日本語による書籍である『大東亜共栄圏と幻のスマトラ鉄道』では名前が言及されるだけで、詳にはされない。河西が42年暮れ、現場へ向かう飛行機が離陸直後に墜落して死亡、実際の建設に関わることがなかったからだが、国鉄職員による建設部隊のつかのまの隊長についてわかっていることをメモしておく。

河西の名は最近のニュースでも言及されたので名前を耳にした人がいるかもしれない。熊本地震(2016年)で不通になっていた九州の高森線が復旧を終え、2023年、7年ぶりに全線で運行を再開したというニュースだ。1928年に開通した高森線は阿蘇山のカルデラの南側、深い渓谷を走る路線で、1986年に国鉄から第三セクターの南阿蘇鉄道に移管した。地震による被害がひどく、復旧の際に議論になったのが「世紀の鉄橋(朝日新聞2021年5月9日)」、第一白川橋梁だ。結局、オリジナルをほぼ忠実に再現して架け替えられたが、この鉄橋を100年近く前、「今のような機材や工法がなかった時代、両岸がトンネルという断崖に鉄橋を架けた(朝日新聞2021年5月9日)」のが河西だった。鉄道橋としては日本最初の鋼鉄アーチ橋を川面から64メートルという当時、国内では最高の高さに架ける工事を施工した。河西は同じ高森線の立野橋梁も担当した。 136.8mの長さの鉄道用トレッスル橋は当時国内で最長だった(*2)。

河西は1900年、信州の上諏訪生まれ、東大工学部土木工学科を卒業、1923年に鉄道省に入省。建設局工事課に勤務した後、1925年から熊本建設事務所に勤務した。橋の施工を担当する以前、有明線について土木地質学の視点から研究を行い、熊本建設事務所長の釘宮磐との共著で「有明線の粘土層上における建設工事」をまとめた。この研究を国鉄が戦後1957年に発行した『50年史』は「大正末期における現場研究の白眉」と評価する(*3)。

熊本時代には有明線の六角川橋梁も施工した(1929年)。橋の予定された場所の地質が軟弱なことから、足場を組まずに潮の干満差を利用し「艀船」を使う「ポンツーン工法」を日本で初めて採用した(*4)。

河西はその後32年から37年、東京に戻り建設局工事課に勤務し鉄道省土質調査委員会幹事、土木学会の常議員などを務める一方、各地の鉄道橋の架設に関わった。四国の土讃線第一吉野川橋梁(33年)では当時最新の「ケーブルクレーン直吊り」工法を採用、九州の佐賀線(1987年廃線)の筑後川昇開橋(35年に完成した電動可動式大橋梁)では主任技師として約3年にわたり基礎調査をやった(*5)。

現在に至るまでその施工技術の評価されるものばかりだが、河西は橋をかける場所の地質や条件を飲み込み、「本邦初」の工法を斬新に、大胆に取り入れていった。河西は当代随一の鉄道土木技術者だった。

その頃の鉄道省は「軍鉄一如の緊密なる協力」を築こうと戦争に前のめりに傾斜していく。軍からの要請があったとはいえ、「鉄」の方も自ら積極的に職員を差し出した。河西も華中の戦場に出かけ、鉄道復旧に取り組んだ(*6)。

鉄道省は国内で戦時動員体制に取り組む一方、国鉄職員を集め、軍属として部隊を編成し戦線に送り込んだ。当時の国鉄の戦争への取り組みへの意気込みは『週報(59)』(情報局 37年12月)に掲載された「戦争と鉄道」に示されている(*7)。

平時産業の戦士は一朝有事の際は実質的には戦闘員と同じ精神を以て、その全能力を発揮して戦時態勢に即応し、尚戦時における国民の生活必需品の輸送等にも満遺憾なからしむべく生産配給の円満なる調整に努力している次第である。輝かしい勝利のかげに実に軍鉄一如の緊密なる協力のある事を知らねばならぬ。

鉄道省 「戦争と鉄道」『週報』(59)情報局 37年12月
足立部隊の国鉄技師たち。38年1月撮影。
のちに第7代国鉄総裁になる藤井松太郎や桑原の姿も見える。
『足立貞嘉追悼集』日建設計工務版 1968 p17

国鉄職員が送られたのは1937年7月7日の盧溝橋事件に端を発した中国との戦争(支那事変、日華事変)だ。31年に満州事変が勃発しその数ヵ月後には鉄道第1連隊が満洲に派遣され、34年には鉄3が編成されハルビンに派遣された。36年には鉄4が新設され大陸の戦線に送られていた。37年の盧溝橋事件(77事変)の数ヶ月後に鉄6(37年10月)、38年4月にはやはり北支を睨み鉄5が編成される。各所で破壊された橋やトンネルを復旧し、列車を走らせるために膨大な数の鉄道兵が必要になったことがわかる。しかし、それでも手が足りなかった。国鉄職員はその不足を補うために投入されたのだ。

まず、北支に鉄道の保守、運営のため、高橋定一の率いる1900人ほどの部隊が送られ(日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史第10巻』1973 p 64)、さらに技術者の部隊が送られた。北支の津浦線黄河鉄橋の修理設計(鉄道研究所、施工は高橋部隊の一部と満鉄の混成)、車両修理班だ。徐州占領後(38年5月)、新たな占領地の鉄道の保守、運営に羽中田部隊が送られた。土木技師の足立貞嘉が率いた足立部隊(鉄道省派遣北支橋梁修理班)は38年2月から翌年5月まで、壊れた橋を修理し、陸軍の侵攻を助けた(*8)。39年4月に設立された華北交通には高橋部隊や足立部隊から多くの国鉄職員が残留、満鉄社員や国鉄からの追加派遣されたものと華北の鉄道運営にあたった。

「一路上海へ。灘風艦上にて」
右から山本賴雄書記官、加賀山、江頭謙吉技手、河西。撮影は同行した立松和男技師。(加賀山学 加賀山朝雄編『ある技術屋のロマン』巻頭 p2)

華中では37年8月、第二次上海事変が起こると鉄道省は元工務局長で現地の鉄道事情に詳しい加賀山学に上海行きを要請、国鉄派遣部隊の受け入れ、「華中鉄道」の設立を依頼した。加賀山は鉄道大臣の中島知久平から人間、機関車、レールなど、国鉄が惜しみなくバックアップする確約を取り付け、書記官、技師二人、技手を伴い10月末、佐世保から駆逐艦「灘風」に乗り込み、上海に向かう。調査部書記官の山本頼雄、立松和男技師とともに河西も「灘風」で上海に乗り込んだ(*9)。

河西は持ち前の技術を駆使し、海杭南線の蘇州河橋梁、鎮江隧道の修復など橋や隧道の修理に取り組んだ。

鎮江隧道の修理工事は大変だ。河西技師も髭をボウボウに伸ばしている。篠原武司小隊長(のちの鉄建公団総裁)も睡眠不足の顔つきで責任感の強い様子がありありと見える。それもそのはず、機関車一両坑門口近くで爆破して、それで坑門口を落として一面の土砂かぶり。(略)機関車の中にコンクリート塊と土砂が食い込んでいる。容易なことではない。

加賀山学 加賀山朝雄編 『ある技術屋のロマン』 1984  p51

翌38年12月25日、上林市太郎(仙台鉄道局長)局長のもとに中支軍鉄道局が組織されると河西は施設(企画?)部長を努めた(*10)。総務部長が井上剛(調査部書記官)、業務部長の丸山武治(名古屋鉄道局総務部長)。軍事輸送を主体とする作戦鉄道で京海線、海杭南線、蘇嘉線、江南線、蚌埠以南の准南線などが受け持ちだった。この中支軍鉄道局は39年5月1日、国鉄職員を擁して国有民営会社の華中鉄道が設立されるまで中支の鉄道を運営した。華中鉄道が設立される頃には鉄道省から中支に派遣された職員は5千人を数えるくらいにまでなっていた(加賀山 p82)。現地に残るもの、華中鉄道に移るものもいたが、帰国する国鉄職員は5月20日、800名ほどが第一陣として出発した。帰国者の総隊長は河西が務めた。

駆逐艦で来た時の河西君とはまるで違った立派さだ。総員千何百人をまとめて、第一隊を瀬谷(義光)技師をリーダーとして帰し、河西君は第二隊の輸送指揮官として、6月上旬に帰って行くのだ。

加賀山 『ある技術屋のロマン』p 85

37年10月末から39年6月まで中支の戦場勤務を終え帰国した河西は8月から旭川、翌年長岡、41年には熱海の工事事務所所長を経て、42年8月28日、司政官に任命され再び戦地に向かう(*11)(*12)。今度の行き先は南方だった。

同じ日に任命された三富秀夫(新潟鉄道局長)を局長として新設される25軍の鉄道総局の技術顧問としてマレーにやってきた。すでに横断鉄道建設構想は生まれていたが、その建設に関わることを日本を出る前に河西が知っていたのかどうかわからない。破壊されたマレーの橋梁や鉄道の復旧は、やはり国鉄職員で41年10月に編成された第4特設鉄道隊(4特)があたっており、新設の鉄道局にも要員として横滑りするのだが、それらの技術指導をする。多分、そんなつもりだったのではないだろうか。河西は三富秀夫(鉄道局長)、大塚武邦(北スマトラ鉄道局長)とともに9月17日東京発、9月23日にシンガポールに到着した(9月26日付け、25軍軍政監からの電報)。

25軍は横断鉄道を「軍政機関」でやると決めはしたものの、その受け皿があったわけではない。25軍が軍政を敷くマレーやスマトラの既存の鉄道すらまだ軍の直接管理のもとにあった。新線建築はまだ出来上がってもいない軍政機関に任せることからスタートした(*13)。

鉄道総局は4特の司令官、鎌田銓一が編成を担当した(*14)。おそらく局長に三富を据え、技術の責任者として河西を招く人選は鎌田によるものだろう。鎌田自身がスマ鉄の建設にどこまで絡んでいたのか直接言及する史料はなくわからないが、河西を建設隊の責任者にする決定も鎌田によるものかもしれない(*15)。

河西の率いることになる建設隊の隊員は鉄道省各建設事務所から集められ、42年9月、司政官に任命された。鉄道省ではマレー半島で破壊された鉄道(主に橋梁)を復旧する人員を送るつもりだったので、100名近い職員は橋梁修理を専門とするものばかりだった。11月5日、宇品を出港し17日にシンガポールに到着する。「昭南上陸前夜、船の中で」(奈須川丈夫 p202)なのか、昭南到着後(笠谷 p198、河合 p8)なのか、スマトラで新線建設を言い渡された。鉄道総局は彼らの到着する二日前、11月15日に発足し、その10日後には河西を隊長とする建設隊が編成された。スマトラ行きの準備に拍車がかかる。測量の基準となる路線図はこの準備段階で河西自身が作った。

ホテルの一室で河西さんは床に大きなスマトラの地図を広げて今度のルートになる処を見ておられたところであった。「河合くん、ここからここまでだよ」と鉛筆で地図の上に無造作にルートを書き込まれた。

河合 『戦火の裏側で』 p10

ムアロとペカンバルのふたつの結ばれる点は決まっていたにしても、どこを通すのか、どこを通らないのか、どこで曲がるのかなど、河西は現地を見ずに決めた。土木地質学で名を馳せ、橋梁建築では素晴らしい実績を残し、トンネルの建設でも知られた工学博士の河西だったが、路線の決定はどうだろうか。南方に来る前にその経験があったのかどうかわからない。経験があったにせよ、現地を実際に踏査せずに作ったことはなかったのではないか。河西が地図の上だけで作った路線図は、測量や建設を経ても変更されることはなかった(河合 p17)。

この頃、クアラルンプールからシンガポールに向かう列車に河西と乗り合わせた二松慶彦は次のように回想する(*16)。12月3日のことだ。

私はマレイ鉄道局のあるクアラルンプールから特別仕立の列車でスマトラに赴任する河西技師と一緒に昭南に向かった。河西定雄技師はスマトラ横断鉄道の工事を心配され、密林の鉄道工事の経験者としての私にいろいろと泰緬鉄道のことを聞かれた。泰緬の秘境の気候風土や作業隊の様子を話す度に、私達の苦労を犒ってくださった。

『泰緬鉄道建設記』泰緬鉄道建設記編纂委員会 編 花園書房 1955 p104

12月14日、増員(約30名)が測量用具と共に到着したが、駅長や機械屋ばかりで土木屋は一人もいなかった(河合 p9)。総勢123名ほどの軍属部隊は12月16日、奈須川丈夫(熱海建設事務所)に率いられ、この移動のためにペナンから急遽調達した観光用フェリー、エリザベス号に乗り込み、河西の見送りで出帆した(*17)。マラッカ海峡は狭いとは言え、外洋だ。吃水の浅いフェリーが渡れるものかどうか、その保証はなかった。

隊長の河西は30日、スマトラに向かうため乗り組んだ飛行機が離陸後に墜落し死亡。副隊長の岡村が昇格、43年1月1日、ペカンバルで杭打ちをした。

岡村隊長は私の手を強く握って「河合君、弔い合戦だな!」と目を腫らせておられた。

河合 p 17

河西が事故に遭わず、予定通り建設の指揮をとっていたらどんな展開になっていたのだろうかと想像せざるを得ない。

<<<<<0>>>>>

  1. 鉄道第8連隊は44年2月、鉄道第7連隊(ビルマ鉄道防衛用)、10連隊、11連隊(ともに仏印、タイ用)とともに「横断鉄道建設のため」に千葉の津田沼で編成された。これら新設の鉄道連隊は2個大隊と材料廠だけで、サイズは小ぶりだ。鉄9までは4個大隊と材料廠という構成だ。
    鉄8第1大隊(本橋大隊)は44年5月から7月末まで横断鉄道の建設に従事したが、第2大隊と材料廠は44年7月3日、シンガポールに到着し、ペカンバルへの移動を待つうちに、北スマトラの鉄道工事に行き先が変更され、そこへの移動を待つうち、月末になるとフィリピンに行き先が変更され、結局マラッカを渡ることなく、横断鉄道の現場にはたどり着かなかった。 ↩︎
  2. 河西「第一白川橋梁架設工事報告」『土木学会誌』14(2) 土木学会 1928年4月 p225〜241。中野一路編『阿蘇』中野一路 1928。 ↩︎
  3. 「有明線の粘土層上における建設工事」鉄道省土質調査委員会編『鉄道省土質調査委員会報告 第1輯』鉄道大臣官房研究所 1931 p 222〜265。『50年史』日本国有鉄道鉄道技術研究所五十年史刊行委員会編 研友社 p237。 ↩︎
  4. 河西「艀船による構桁架渡工事」『業務研究資料』19(35) 鉄道大臣官房研究所 1931年9月。 ↩︎
  5. 『交通と電気11(2』電通社 1932 p 44。

    河西は1930年発行の『土と水研究委員会報告第1回』に「橋梁基礎」(p 19〜24)を寄せている。同じ報告書には釘宮磐(熊本建設事務所長)や渡邊貫らも寄稿。渡邊貫は戦前「国鉄の三大ホラ吹き」の一人でホラカンと呼ばれた。残るホラ吹き2人はホラジロウこと立花次郎とホラヤスこと桑原弥寿雄。ホラと言っても嘘をつくことではなく、スケールがでかく、到底実現不可能に見える計画をぶち上げたからだ。桑原は「青函トンネルの生みの親」などとしても知られるが、中央アジア横断鉄道の調査(42年1月、25軍軍政部交通要員として派遣された笠谷孝(函館保線事務所長)も関わった)、泰緬鉄道、泰仏印連接鉄道などを発案、スマトラ横断鉄道も自身の発想によると主張する。開戦前、40年11月に行われた朝鮮海峡隧道に関する調査チームにもホラカンと共に加わっていた。 ↩︎
  6. 官報によれば河西は38年4月15日鉄道調査部事務官に任命され(3383号 p630)39年8月31日に免官されている(3797号p1324)。
    ↩︎
  7. この文章は鉄道省名義になっているが、執筆者は調査部書記官の井上剛だろう。井上が10月15日に行った街頭講演の文字起こし「戦争と鉄道輸送」に内容が酷似している(『貨物情報』13(10)鉄道省運輸局 37年10月)。
    鉄道調査部は盧溝橋以前の37年6月22日、将来の「軍鉄」協力を探る目的で勅令で新設された部署。すでに総動員体制に対応する取り組みは始まっていた。調査部は鉄道大臣直属で参謀本部から中佐が派遣された。初代調査部長は部長は鉄道次官の喜安健次郎。翌年(38年)には森本義夫(新潟鉄道局初代局長)が部長に代わっている。河西も鉄道職員録に調査部の「技師(外国出張中)」として名前が載っている。河西と共に加賀山に同行した山本賴雄も調査部の書記官だ。戦時、国家総動員体制に応じたヒトやモノ資源の整備運用計画、作戦輸送計画の策定、その遂行などが目的だったが、戦場で鉄道連隊を補完する組織の編成や派遣もその大きな課題だった。
    井上自身、街頭講演の二月後の12月、560余名の国鉄職員を率いて上海に到着、海南線、海杭線の線路復旧にとりかかった。井上部隊は翌年7月までに3000人以上に膨れ上がり、その頃までに中支鉄道のおおかたを運営した。
    井上部隊の前には、日本国内から分解して運ばれた9600型機関車25両、貨車625両を陸揚げし、組み立てるため、仙台鉄道局の機械課長、山田道彦が60名ほどを率いて作業を開始していた。井上部隊の後には38年7月、名古屋鉄道局総務部長の丸山武治の部隊が入っている。 ↩︎
  8. 中国戦線に送られた国鉄軍属部隊の活躍が対英米(蘭)戦争の際の特設鉄道隊の設置につながったという主張もある。「これらは非常に活躍し、これが大東亜戦の南方作戦事前の特設隊の編成を導いた(『鉄道技術発達史 第一篇(総説)』p164)」。この記述は足立部隊の一員だった桑原の手によるので、その辺りを差し引いて読まなければならないかもしれない。
    ↩︎
  9. 加賀山学は久保田敬一(29年運輸局長、31年次官、38年貴族院議員)や横断鉄道を着想した増永と同年生まれ(1881)で同じ年に鉄道省に入省、増永が電気局長を務めた頃、工務局長だった。二人は鉄道省に在籍した人間の親睦団体の淡交会(1925年創立)のメンバーでもあった。1925年に創立された淡交会は例会のほか、会員から大臣が出たり、次官以下局課長の栄転などがあると集まっていたようだ。会員には二人の他、久保田や十河信二(第4代国鉄総裁)などがいた(『人の噂2(4)』月旦社 1931年4月 p 92)。
    第2代国鉄総裁(49年〜51年)参議院議員(53〜65年)だった加賀山之雄は学の21歳下の弟。 ↩︎
  10. 国鉄のまとめた『鉄道技術発達史 第1篇 (総説)』1958 p204)は河西を「施設」部長、加賀山は「企画」部長と書く。 ↩︎
  11. 1938年当時、旭川、熊本、東京、米子、岡山、山口、熱海、盛岡、秋田、長岡、岐阜の11ヶ所の建設事務所があった。
    ↩︎
  12. 熱海建設事務所時代にはやがて東海道新幹線に使われる新丹那トンネルの採掘に取り掛かっていた。のちに間組の丹那建設所工事部次長としてトンネルを完成させる奈須川丈夫は熱海時代、河西の部下の工事区長だった。奈須川は河西亡き後、岡村隊の副長を務めた(『トンネル100年:日本の鉄道』毎日新聞社 1968 p92)。
    河西には『道路・隧道・地下鉄道・擁壁(アルス鉄筋コンクリート工学講座第3巻)』(アルス 1938)に掲載された「隧道」がある(p 71〜122)。 ↩︎
  13. 河西自身は鉄道連隊による工事を主張した。
    「総局の技術最高責任者、河西定雄司政長官は要員は総局より出すとしても極力軍組織の建設部隊の編成を力説されたが最終的に軍政監の説得に応じ、(略)総員約123名の建設隊を編成した。(笠谷孝「横断鉄道建設の経緯」『富の歩み』p199)」 ↩︎
  14. 明石陽至編・解説『渡邊渡少将軍政(マラヤ・シンガポール)関係史・資料』p 156。 ↩︎
  15. 鎌田は1943年6月発行の『東京港』に次のように書く。横断鉄道を決定した当時の軍政のトップ、渡邊渡の考え方に酷似する内容だ(「渡邊渡を読む(1)」「渡邊渡を読む(2)」参照)。鎌田の文章が出版される頃、自身の編成した鉄道局の職員たちが測量、基礎工事が始めてすでに半年が経っていたが、横断鉄道の目的を共有していたことを記憶しておきたい。
    「(スマトラの)北部、西部および南部と夫々孤立した鉄道で、之を結ぶべき縦貫鉄道は、地形上実現は困難であります。而し各部共に豊富な資源を有して居りますから、これを大東亜共栄圏内の有力なる資源として、マライのゴム及び錫と共に、日本内地に送る必要があり、ここに大東亜鉄道の完成を期待します。特に船舶不足を補うために、極力これら鉄道を利用する必要があります。
    すなわち北部スマトラではベラワンまたはタンジョンバライよりマライのポートセッテンハムに船車連絡を行い、西部スマトラは唯一の良港エマハーフェンより迂回してマライに輸送する煩を軽くするため横断鉄道を設けて、本部のパカンバルに結び、これより昭南に船にて結ぶようにして、南部スマトラはパレンバンから昭南に船車連絡をやる必要があります。(鎌田銓一「開港記念日に際し南方戦線を偲ぶ」『東京港7(6)(72)』東京港振興会 1943 p6)」 ↩︎
  16. 4特の鉄道橋梁隊(成沢部隊)の一員でマレーにいた二松は42年5月20日、技術指導官として泰緬鉄道建設に駆り出された。11月からは、メクロン川に橋をかけるために必要な掘削機械、ガットメルドレッジャーを探して、二松はマレー半島各地を訪問していた。12月3日、二松が原隊の 4特鉄道橋梁隊をイポーに訪ねた時、河西に出会った。 ↩︎
  17. このあと1月中に後続が到着し、軍属部隊は総勢250名ほどになった。 ↩︎

河西定雄:つかのまの建設隊長” への2件のフィードバック

コメントを残す