渡邊渡を読む(2)

引き続き、渡邊渡の「軍政関係史・史料」から横断鉄道初期の様子を探る。スマトラ「国土建設計画」を策定した佐藤俊久をシンガポールに呼んだのが渡邊渡本人なのかどうか、まだ確証はないが、42年春から翌年までスマトラ軍政のトップにあった渡邊が佐藤の示したビジョンに共鳴共感し、その達成を目指していたことは読み取れる。

増永も佐藤もともに25軍の軍政顧問だったので、二人の研究計画は渡邊に報告されたことは間違いないだろう。渡邊が南方総軍との対立が理由かと思われるが、43年に25軍を去るまで、横断鉄道の実現に向け、先頭に立って動いていたのかもしれない。

渡邊渡
大阪朝日新聞(1942年3月14日) 神戸大学附属図書館新聞記事文庫

渡邊の文章からは何か、無念さが滲んでくる。クアラルンプールの鉄道総局を頂点とした二つの地域にまたがる鉄道運営機構をあれほど苦労して作ったのに、それが再び、二つに分かれてしまったことを残念がっているのが文章に滲み出ている。マレーとスマトラの一体化を繰り返し主張した渡邊や司令官の斎藤弥平太がトップの座から下され、25軍はシンガポールから「前進」し、スマトラの防衛、統治に専念する。スマトラの鉄道運営の政策、態度が変化し、横断鉄道への取り組みも変化したことは間違いない。

こうした状況の中で渡邊らが構想した横断鉄道計画は下記の通り。

  • 目的

戦争中、日本軍の手で現地人や連合国捕虜を使い捨ての安価な労働力として搾取することを前提に、無茶苦茶な条件で建設された鉄道を「死の鉄路」と呼ぶことがある。そのうち、泰緬鉄道とそれを補完するクラ地峡線は純粋に作戦鉄道として計画されたので、この時期構想された横断鉄道は石炭を運ぶためだけにジャワに施設されたバヤ鉄道に近いかもしれない。しかし、渡邊の頭には石炭を運ぶだけの路線以上のもっと大きな構想があったことは次の文に現れている。

現下建設資材難の時期において、まずスマトラ中部横断鉄道を着手することとなり。(渡邊「軍政関係史・史料」 p 163

キーワードは「まず」だ。いろいろやりたいことは山ほどあるが、資材難なので、とりあえず、これから取り掛かる、と言っているのだ。

渡邊はまず、この鉄道がシンガポールと(ペカンバルを通して)西海岸のパダンを結ぶ「画期的建設事業」であり、全島の産業開発の「大動脈」、「南方圏水陸交通の大幹線」だと書く。増永は石炭運送路線として横断鉄道を考えたと言っているが、渡邊は「資源」という言葉は使うものの、直接石炭には全く触れない。路線は石炭だけでなく、スマトラに眠る未曾有の資源を運ぶ殖産興業の動脈と据えていた。兵士や兵站を担う作戦鉄道ではなかった。産業振興、資源の搬送など、直接どんぱちに関わらないという意味で非軍事目的の路線であり、渡邊は作戦用のメリットには一言も触れない。

428月、シンガポール陥落半年後、軍政監部交通部のまとめた「馬来・スマトラ交通行政概況」からも渡邊の軍政部は鉄道の作戦部隊からの移管、鉄道総局設置に25軍が急いでいたことがわかる。マレーにおける鉄道の復旧、スマトラにおける鉄道経営という直近の業務に追われていたものの、タイや仏印とマレーを「一貫する鉄道輸送」の研究に取り組み、クアラルンプールの鉄道総局を核とする南方軍占領地域を結ぶ鉄道業務を構想していた。

東亜共栄圏内の内地還送ならびに交流重要物資関係よりするも仏印、泰、馬来を一貫する鉄道輸送は絶対必要とするところを以っ早急にこれに対する研究を行い円滑なる輸送を図るとともに輸送力の拡大、輸送時間の短縮を行わんとす(「馬来・スマトラ交通行政概況」 p1861)

鉄道総局はスマトラとマレーを一体化したが、その先には共栄圏鉄道が考えられていた。そして、渡邊によれば、スマトラ中部に計画された横断鉄道はそれを具体化する第一歩だった。

横断鉄道はシンガポールとパダンを結ぶだけではない。渡邊は横断鉄道の先に、島内に孤立する三つの鉄道網を結ぶ全長760キロのスマトラ縦断鉄道を考えていた。この縦断鉄道については増永も言及しているので、横断鉄道構想同様、増永調査団が出どころかと思われる。佐藤も言及する。しかし、結ぼうとしたのは島内の鉄道だけではない。そのもうひとつ先に「南方圏鉄道」があった。

南方軍の支配地域のバラバラの鉄道路線を結び、それを一元的に管理する。渡邊は満州における満鉄のような存在を考えていたのかもしれない。もと満鉄鉄道部次長の佐藤俊久が吹き込んだものかも知れない。渡邊の「南方圏鉄道」は433月に鉄道技師(兼企画院技師)の桑原弥寿男が「南方大陸幹線と印度支那半島におけるその使命」で描く「南方大陸幹線」とも共鳴する。桑原は「南方大陸幹線」に向け、まず泰仏印と泰緬の建設が欠かせないと報告書を結ぶが、それに呼応するように渡邊は「まず」横断鉄道に取り掛かったのだ。

南方圏鉄道、大東亜共栄圏鉄道、朝鮮海峡横断隧道、弾丸列車、中央アジア横断鉄道など鉄道の絡む夢のような構想は開戦前から、それぞれ独立して研究されていたかのように語られがちだが、これらの構想に横断し、重複して関わった人間がおり、これらの計画は交錯して進行したと言える。

皇戦会常務理事、綜合地理研究会などを通して地政学研究に関わり、興亜院、企画院を経て1940年には参謀本部付として総力戦研究所で「大東亜戦争」の机上演習に参加した渡邊や、早くから泰緬や朝鮮海峡横断隧道などに関わった桑原らは、それらの研究を横断して結びつけた人間だ。だから渡邊の口から「南方圏鉄道」という言葉が出ても全く不思議ではない。25軍軍政監部は鉄道の権限を作戦部隊から手に入れ、それを一元的に管理する鉄道総局を設置し、各地の孤立した路線を繋ぐ作業の「まず」最初の第一歩として横断鉄道の建設にとりかかったのだ。(軍政関係史・史料 p167)。

  • 戦前のオランダの計画

オランダがスマトラに戦前敷設した鉄道は島の北、西、南に独立しており、繋がっていなかった。この状況は戦後75年経つ現在も変わっていない。戦前、オランダ植民政府がこれらの孤立した路線網を「横断ないしは縦断鉄道」で結ぶことを考えていた、しかし「充分な発展」をする前に戦争になってしまったと渡邊は書いている。何をどこまで知っていて、25軍はそれを参考にしたのかどうか、渡邊は詳しく記していない。増永は言及しないが、オランダ植民政府に路線延伸の構想があったことを渡邊は知っていた。(軍政関係史・史料 p152

  • 着工時期

渡邊は「年度内には測量工事を終了せり、次年度より本格工事に着手の予定」と書いている。測量を三ヶ月ほどで終え、次年度、つまり434月には本工事着工する予定だった。遅れた理由はわからないが、本格工事は44年まで始まらない。

  • 工期

2ヶ年。全線をムアラレンブ、ロガス近辺で二つの工区に分け、ムアロとペカンバルから同時に着手する。ペカンバルから分岐点までは43年度中に竣工。全線の竣工は44年度の予定。

  • 経路

基本的には増永の提案通り、ムアロからオンビリン峡谷を抜け、ルブアンバチャンで北上、ペカンバルに向かうコース。たぶん、佐藤が提案したと思われるムアロからオンビリン渓谷を避けてタルックに至る「別ルート」が検討されたことは間違いないが、結局、渓谷を抜ける案に落ち着いたものと思われる。

単線仕様で渡邊はムアロを「始点」と書いている。

  • 距離

215キロと見積もり、下記の工費見積もりもこれに基づく。実際は220キロ。

  • 軌間

1067mmp163)。着工が計画から遅れ、性格も目的も変わり、このままこの幅でレールが敷設されたのかどうか、まだ調査が必要だ。しかし、少なくともこの時点で、横断鉄道は1067mmで計画されていたことは間違いない。

渡邊は将来、島の北部にある狭軌のアチェ線541キロを1067mmに改軌して全島の鉄道の軌間を統一する計画を語る。それから類推しても、新設する横断鉄道を、将来、島の統一規格となる1067mmで考えていたのではないだろうか。渡邊がこの軌間を選んだとすれば、直接的にムアロからパダンへ既存の路線と接続する必要からではない。渡邊が繋ごうと夢想したのは全島を結ぶ路線網だ。

少なくともこの時点までは、横断鉄道の軌間は1067mmで考えられていた。この後、計画が変更された可能性はあるが、それがわかるまでは1067mmで計画されたと判断するのが妥当だ

  • 仕様

鉄道省丙線程度。列車の速度や頻度など輸送能力を決定するもので、勾配や曲がり具合などの基準。丙線は最小曲半径が200m、最高勾配は20/1000など、曲がりくねり、起伏の激しい線路になり、当然、速度は遅く、輸送量も限られてしまう。泰緬もこの基準で設計された(ただし、432月の工期短縮命令により、勾配はさらに25/1000に緩和)。国内では小海線などが丙線。

佐藤の計画した「中央横断線」は、ほぼ直線で新幹線規格に近い仕様であり、列車も最高時速150キロを考えていた。増永の路線とはまったく別物だった。

  • 工費概算

キロあたりの工費を15万円、215キロで総額 32百万円ほどと見積もる。これを42年度から3年に振り分け(初年675千円)、43年度(190万円)44年度(150万円)となっている。3年度を合計しても22075千円にしかならない。それはともかく、42年度の予算は測量や基礎工事、本格工事は43年度から取り掛かり、44年度と2年間と考えていたことを予算配分も裏付ける。

  • 主要な土木工事

上工切り取り、盛土:約1千万立方メートル

新設の必要な橋梁:約104箇所。総延長は2120メートル。オンビリン川(160メートル)、カンパーキリ川(160メートル)、リパイ川(100メートル)、カンパーカナン川(200メートル)の4つを「大架橋工事」と呼んでいる。

隧道(トンネル):クアンタン渓谷、ムコムコ付近に二つ、あわせて約1650メートル。これは1860年代にこの地域に探検に入り、オンビリン炭鉱の開発と地域の鉄道網開発をオランダ政府に進言したデグリーブ(Wilem H. de Greve)の経路案を思わせる。険しく聳り立つ峡谷を抜けるため、デグリーブは「400メートルをこすトンネル二つ、それらを結ぶ高架架橋ひとつ」をここに設けるつもりだった。(「Het Ombilin-kolenveld in de Padangsche Bovenlanden en het transportstelsel op Sumatra’s westkust」 添付地図)

停車場の構内線を含めた総路線距離:260キロ

停車場の数:21箇所に新設。機関車の運用には水や薪の補給、要員の交代する停車場が必要になる。新設ということで既に駅があったムアロはこの数に入っていない。ムアロについては、停車場の改良が必要だと書かれている。どのような改良が必要だったのか、わからない。それ以外、もう一方の終点ペカンバル以外、20箇所、どこに停車場、駅が置かれたのも不明。

445月中旬から第八鉄道連隊が建設を担当した工区ではサロサ、リパカイン、コタバルに停車場を作る作業をしたことが陣中日誌からわかる。中でもリパカインは大きな駅だったようだ。

機関車庫:12から13両程度を収容する車庫をロガス付近とペカンバルの2箇所に。

  • ペカンバル開発

日本軍が侵攻した当時のペカンバルは今日の百万都市の姿からは想像もできないが、田舎の川港だった。リオ州長官に就任した牧野正三郎は当時のペカンバルをこう表している。

戦前オランダがシンガポールの最短距離というわけで、極端に警戒し、わざと開発しなかったので、州内はほとんどジャングルで覆われ、住民も少なく、州政府も旧税関のバラックに仮住まい。(「史料集 南方の軍政」 p358

横断鉄道の建設を考えるとき、忘れてはならないのは、それがペカンバルの開発、シア川の浚渫、河港改良とセットで考えられていたことだ。鉄道の建設はマレー半島への輸送路の一部であり、ペカンバルの開発、航路の整備も鉄道建設と一体で考えられていた。鉄道の終点はペカンバルだったが、輸送路の最終目的地はシンガポール、マレー半島だ。

領有後の新事態により同州の重要物資運送並びに来往は昭南と急速に接近せしむる必要あるを以て「スマトラ」西海岸州と「リオ」州「パカンバル」間陸上運輸送路と「パカンバル」「シヤク」河の開拓による輸送路を計画し本月上旬実地調査に着手せり。(25旬報 429月)

渡邊は「軍政史料」の交通に関する章の「結語」でシア川を250キロにわたり浚渫し、ペカンバルの「大都市計画」があったことをほのめかす。これはたぶん、佐藤が「国土建設計画」でぶち上げる大運河構想のことだろう。ペカンバルに単なる乗換地以上の開発を考えていたようだ。

渡邊は鉄道建設に必要な労働力をどこから調達するつもりだったのか、書いていない。ジャワなどから現地人労働者をかき集めるつもりだっただろうと想像できるが、果たしてこの時期、連合軍捕虜の投入を考えていたのかどうかわからない。

スマトラの帝国領編入を画策し、インドネシアから分離し、マレーとスマトラの一体統治を推進した25軍首脳が飛ばされ、司令部がシンガポールからブキティンギに移駐する434月以降、横断鉄道への取り組み方も大きく変化する。着工は44年まで伸び、渡邊の意図したようには始まらない。それ以外にも上記の計画から変更があったことは間違いない。産業振興用、石炭輸送用の軍政路線として構想され、将来は全島を結び、南方圏鉄道の一部となるはずだった路線に軍事路線としての役割が期待されるようになのは渡邊がスマトラを後にしてからのことだ。