43年初期の横断鉄道:渡邊渡を読む

増永や佐藤が考案した鉄道路線、スマトラ開発計画はその後、どう進展したのか。2人がシンガポールに司令部、軍政部をおいた25軍の顧問だったので、その時期まとめられた「富軍政年報」(436月、「軍政(マラヤ・シンガポール)関係史・資料第5巻」に収録)からその片鱗がわかるかもしれない。

東京朝日新聞(1942年3月15日) 神戸大学附属図書館新聞記事文庫

まずは開戦前の鉄道の状況、侵略後に25軍のとった鉄道に関する政策、そしてそれがどんな考えに基づいていたのか、横断鉄道などの計画がどんな環境の中で生み出され、進んで行ったのか、取り巻く環境を見てみる。

42年4月、ボルネオ守備軍参謀長に転出した馬奈木敬信に代わり渡邊渡が部長・参謀副長に就任した。すでに、次長の頃から軍政の実権を握っていた渡邊が増永の横断鉄道構想や佐藤の国土計画に関与したことは間違いないだろう。関与どころ、ひょっとすると、これらは渡邊の肝煎りで進められたのかもしれない。

シンガポールに増永を顧問として呼んだのが誰なのかわからないが、増永の名前はすでに3月末の25軍軍政部員(高等文官)一覧表に確認することができる(最後に確認できるのは同年12月の名簿)。「一年ぐらい」南方にいたという増永の言葉と符合する。佐藤は満洲や北支の縁で渡邊自身が招いたと思われる。佐藤は11月、(渡邊の見送りで)シンガポールを後にしている。「富軍政年報」では第4篇が「交通」に当てられ、そのうちの一章が鉄道に関するものだ。鉄道が25軍の植民地経営でそもそも大きな比重を持っていたことをうかがわせる。

とはいえ、25軍がスマトラ開拓を占領前から考え、準備していたわけではない。そもそも、進攻前にスマトラ統治をどこの軍が担当するのかすら決まっていなかった。日本軍はスマトラ進攻前にスマトラをどうするつもりだったのか、マレーのように決めてはいなかった。島全域を25軍の作戦地域と南方軍が決めるのは39日のことで、北スマトラ侵略を目指す近衛師団がシンガポールを出港した翌日のことだ(「南西方面陸軍作戦」防衛庁防衛研究所戦史部編著 p6)。東京の武藤章軍務局長が318日に明かすように、「スマトラは当初2地域に分割する予定なりしも作戦軍作戦地域の関係にて1地域とし、馬来の下に付する」(「史料集 南方の軍政」防衛庁防衛研究所戦史部編著 p117)と、ジャワ派遣軍(16軍)とマレー派遣軍(25軍)の間で島を分割統治するつもりだった。

25軍はマレー侵攻後、半島の鉄道の要所を確保したものの、鉄道連隊が作戦部隊に同行しさらに前線に進み、敗退する英軍の破壊した橋や路線の復旧などに忙しかったため、占領地で鉄道が復旧するのは42年1月になってからだ。最初にマラッカに近いゲマスまでの運転が再開した。この運行には鉄道省の職員らからなる第4特設鉄道隊(当時の司令官は鎌田銓一)、第5特設鉄道隊(岩倉卯門)が当たった。第4特設はのちに横断鉄道にも係る。

鉄道連隊は戦地で破壊された路線の復旧工事や橋梁架設を行い、機関車を走らせ、作戦部隊を助ける兵隊の部隊だ。日本軍では1896年に鉄道大隊が新設され、1907年には鉄道連隊に昇格、開戦時には6連隊、終戦時には20連隊があった。自動車やトラックが普及する以前、鉄道は陸上で多数の兵士を長い距離、素早く移動させる唯一の手段であり、日本軍では鉄道を戦術的な道具として重視して整備してきた歴史がある。鉄道連隊が演習で建設した路線は小湊鉄道、成田鉄道、東野田線など千葉県を中心にいまだに現役で使われている。

シンガポールが陥落し、大規模な戦闘の止んだ215日、25軍は総延長1728キロ(ジョホール鉄道193キロを除いてマレー連邦鉄道の所管)の鉄道を手に収めていた。シンガポールへの路線も復旧し、22日には西海岸線経由で一番列車が到着した。その後も現地人従業員の職場復帰を促し民需品輸送や一般旅客輸送を開始、シンガポールに集まっていた避難民約8000人を帰郷させ、タイから米を緊急搬送し、シンガポール侵略直後から鉄道が民心の安定を図るために使われた。

鉄道連隊や特設鉄道隊の手で橋や路線などの施設の復旧は進められたが、マレーでは機関車や貨車の多くが破壊されていた。占領後、日本から機関車41両が貨車350両とともに送られ、43年1月末には機関車180両を保有するまでに回復したが、まだ戦前(204両)の レベルには及ばない。客車は戦前(407)に対し333両。貨車は4435両(戦前5884両)だった。(42年戦時月報交通部調査

激戦のマレー半島に比べ、スマトラを侵攻した近衛師団は北部や中部で機関車や貨車をほとんど無傷で手に入れることができた。メダンでは合計99両(戦前108両)の機関車、客車378両、貨車3000両近く、パダンでも事情は変わらず、49両の機関車、137両の客車、1049両の貨車を敗走したオランダ植民政府から引き継いだ。激しい戦闘のあった南部パレンバンでは機関車の半数が失われ、43年1月時点で28両、客車は131両(戦前161両)、貨車は1184両(戦前1869両)と戦前のレベルには及ばなかった。(42年戦時月報交通部調査

スマトラの鉄道をどうするか、25軍はあまり考えて準備をしていたわけではない。3月、北部に上陸した近衛師団には鉄道連隊(第9第一大隊)が帯同していたが、作戦が終了した 5月にはバンコックへ移動を命じられ、引き揚げてしまう(その後、泰緬鉄道に回りタイ側からの建設工事を担当)。

マライ派遣軍がスマトラを管理担当することは予想していなかったので鉄道運営部隊を用意してなかった。そこでとりあえず、当分の間マライに進駐していた第5特設鉄道隊より調査隊を編成してスマトラ鉄道の状況調査にあたらせた。調査隊は加賀事務官以下10数名で、北、中、南の三鉄道局に分かれて調査にあたるとともに、現地人を督励して鉄道の運営を再開させ、一ヶ月後に帰った。しかし内地より本格的に運営要員は当分到着の望みがなかったので昭和175月に第4特設隊(マライ駐在)の一部を持って運営隊を組織して派遣した。

日本国有鉄道編 『鉄道技術発達史』桜井広済堂 1958  p238

弾が飛び交い、どんぱちの続く戦場で鉄道作業を作戦の一部として担当する兵隊を集めたのが鉄道連隊だとしたら、作戦がとりあえず終了し、ほぼ平定された場所で鉄道を復旧し、機関車を走らせ、路線の維持に当たる目的で作られたのは特設鉄道隊だ。第4と第541913日「鉄道諸部隊臨時編成」の命令を受けて翌月、南方用に編成された。特設鉄道隊は陸軍の一部、軍事部隊には違いなかったが、鉄砲を担ぐホンモノの兵隊はわずかに37人だけで、残りの676人は国鉄職員が軍属として加わる部隊だった。

鉄道はマレーとスマトラの「一体統治」を確信する25軍軍政の動脈であり、大きな柱だった。シンガポール陥落半年後、428月、25軍政監部交通部のまとめた「馬来スマトラ交通行政概況」も、当時の月報や旬報も軍政のトップに就任した渡邊のもとで、鉄道の運営を作戦部隊から軍政に移し、その上でマレーとスマトラの鉄道を一括管理する組織の設置に取り組んだ様子を伝えている。作戦系統からの反発があったのか、鉄道管理総局の設置は一筋縄ではいかなかったようで、奔走した様子が読み取れる。なぜ、渡邊や25軍軍政監部は急いだのか。その答えのひとつは「マレーとスマトラの一体統治」を急いで確立することにあった。鉄道はそれを具体化するための道具であり、同時にシンボルだった。

渡邊だけでなく、42年7月、山下奉文に代わり司令官についた斎藤弥平太もマレーとスマトラの一体統治を主張した。なぜ、25軍の首脳たちはこれほど「一体統治」にこだわったのか。これにはスマトラの将来の帰属が関わっていたようだ。25軍首脳はスマトラを(まだ生まれざる)インドネシアから分離することを考えていた。「マレーとスマトラの一体統治」はスマトラをインドネシアから分割することだった。

スマトラの将来の帰属をどうするか、開戦前から様々に議論はされていたが、はっきりと決まっていなかった。南方の占領地全般については、将来を決めていた地域もあるが、スマトラは決めていなかった。フィリピンやビルマは一応、独立させる。戦略的な要所であるマレーと香港は帝国の直轄領とするつもりだった。しかし、軍や政府の間で、いまだ生まれざるインドネシアについての態度は決まっていなかった。「自治」や「独立」を認めるのか、認めるとするならば国の範囲はどうするのか。意思統一されていたわけではない。所詮「インドネシア」はまだ流動的な概念にすぎず、スマトラを「インドネシア」から引き剥がすことも可能だと考えられていたことがわかる。

スマトラをボルネオ、セレベスなどとともに、香港やマレーと並び「保護領(一部は直轄領)」とする案に関する議論の一例を伝えるのは開戦後411219日の日付の入る大本営政府連絡会議だ。「南方占領地帰属に関する思想調整の腹案」では、戦略的なものなのか、地政学的な理由なのか、スマトラを直轄の天領にする。手放したくないとする意見が出ている。採用されなかったひとつのたたき台に過ぎないとも言えるが、「独立せしむ」ジャワとは分離し、スマトラを直接取る案も検討されていた。開戦翌年の42314日、スマトラ侵攻の最中に開かれた第95回大本営政府連絡会議でも意見が一致せず、議論が噴出した。

占領諸地域ノ帰属及統治機構」について、建前として

蘭印は従来一組織内にありしを持って今後も一組織として取り扱うを可とす、然らざれば帝国の手により凡ての組織を改編するの必要を生ずべく満州等の経験によるもこれは一考を要す。

としているが、参加者の間では「議論沸騰」した。翌月、近衛師団長としてスマトラに赴任する軍務部長の武藤章の発言。

どうも全部取らねばならぬと思うも何と無く蘭印は独立せしめざるべからず、然るに「スマトラ」は取らねばならぬ、「ボルネオ」は取らねばならぬと漸次逐い詰めていけば「ジャバ」のみ独立せしむることとなれる次第なり。

スマトラを将来、当時の台湾や朝鮮のような「帝国領」にしようと考えたのは東京の武藤らだけではない。マレー作戦、スマトラ侵攻を進める現地軍首脳にも、スマトラをインドネシアから切り離し、将来マレーと同じように帝国領とする考えが芽生え、支配的になっていた。司令官の山下奉文はスマトラ攻略どころか、マレーもシンガポールも平定する前の41年12月31日、これに触れている(「史料集 南方の軍政」p449

25軍はマレーとスマトラの「一体統治」を急いだが、南方軍との間で必ずしも意見が一致していたわけではない。もともと南方軍と25軍の間には様々な対立があったようだ。これについてはまた別に考察するが、一体統治については、同一通貨の発行を南方軍は計画したこともあるが、これが両軍の対立の火種になっていく。東京の陸軍中央は一貫して冷ややかだった。作戦上の判断で25軍の「一体統治」は認めたが、スマトラを将来のインドネシアから分離して「帝国領土」に組み入れるつもりはなかった。

マレーとスマトラの鉄道を一手に掌握する鉄道管理総局の設置は「一体化」を象徴し、それを推進する鉄道行政の本山でもあった。企業室、総務部、業務部、施設部の13部からなる総局の編成には第4特設鉄道隊の司令官、鎌田銓一が当たった。軍の中央や南方軍との調整が難航したためか、それとも人材が足らなかったのか、総局は予定からひと月ほど遅れた421115日、クアラルンプールに開局する。マレー鉄道は総局の直営、スマトラには3つの鉄道局が設置された。総局設立当時の従業員数は下記の通り。

マレー:現地人10200人、日本人345人。

スマトラ:現地人8295人、日本人163人。(渡邊「軍政関係史」p155

それから10日後、産声を上げたばかりの総局は渡邊ら軍政監部からスマトラ横断鉄道の調査を命じられ、早速、翌月、国鉄からの軍属130名からなる測量調査隊が総局の技術最高顧問、河西定雄のもとに編成される。43年1月1日、全線一斉に測量が始まった。

続く