スマトラ縦貫鉄道

スマトラ横断鉄道は今でもあまり知られていないが、戦争中、それが構想され、建設された時、一般の人は知り得たのか。どのくらい、日本で報道されたのだろうか。すべての新聞報道を調べるわけにはいかないが、神戸大学経済経営研究所が明治末から昭和45年まで、新聞切抜を集めた「新聞記事文庫」で調べてみるといくつか、横断鉄道に関する新聞報道が残っている。

日本軍の侵攻から10カ月ほど、1942年10月8日付けの大阪朝日新聞は、翌年25軍がブキティンギに移駐するまで軍政監部の交通部長を務めた壺田修の言葉を次のように伝えている。

(昭南特電六日発)将来はスマトラ縦貫鉄道を開通し豊富な資源の輸送を一層便利にする考えで計画を進めている。なおまた別に西海岸州パダンとリオ州パカンバルを繋ぐ中部横断鉄道も調査立案ずみで、工事着手を待つばかりとなっている。

大阪朝日新聞42年10月8日
(神戸大学経済経営研究所、新聞記事文庫より)

文中で言及される縦貫鉄道は佐藤俊久が「国土計画大綱案」で展開する全島網羅の鉄道網に含まれる線のことだ。佐藤が全島の開発計画をまとめるのは9月のことで、その翌月にはすでに「内地」の新聞に交通部長の談話として報道されていた。

壺田はその記事の中で、二つの鉄道路線計画に触れている。交通部長の発言から現地の軍政はすでに佐藤の開発計画を好意的に受け止め、大いに乗り気だったことがわかる。「なおまた別に」と壺田は、佐藤の案とは別な「中部横断鉄道」があり、そちらはすでに「調査立案ずみで、工事着手を待つばかり」まで進んでいた。

この時期の横断鉄道に関する記述に見られる典型的な書き方で、その真意はこうだ。佐藤の遠大な鉄道網案が理想だが、まず、とっかかりとして増永案に取り掛かる。このパターンだ。25軍軍政のトップ、渡邊渡の記述にも「まず」があった。このパターンは、その翌月、11月の読売報知新聞の記事にも見える。

既に北、西南部をつなぐスマトラ縦貫鉄道が論議されているが、それに先立って昭南を起点としたスマトラ中部パダンへの直通ルートがやがて完成されるであろう。これにより処女のまあまわが開拓をまっている無限の宝庫が南方基地昭南へとつながれることになる。

読売報知新聞42年11月10日〜20日 (神戸大学経済経営研究所、新聞記事文庫より)

戦時中とはいえ、ものすごい表現でクラクラする。スマトラが「無限の宝庫」なのかどうかはともかく、この記事を書いた男は、「処女」というものは誰も、わが「収奪」や「陵辱」を待つ存在だと思っているようで、日本帝国主義の男根グイグイな性格がよく伝わってくる。一体何様のつもりなんだ。

それはともかく。

この二つの新聞報道に見えるように、佐藤の計画が前振りで使われる。それは素晴らしい計画ではあるが、あまりに遠大、壮大で荒唐無稽ですらある。その比較で見ると増永路線に佐藤の「国土計画」の派手さはない。「昭南を起点としたスマトラ中部パダンへの直通ルート」は現実的で、手をつけられそうだ。佐藤の鉄道に「先立って」そっちから建設するという感じだ。

これらの新聞記事から、当時の陸軍首脳の態度も推し量ることができる。佐藤の計画も増永の路線も知っていた、それに賛成するでも、反対でもなく、しかし、それが公になることは厭わない。口も出さず、金も出さず、手も出さす、とりあえず現地軍のお手並み拝見、というあたりか。

その一方で、同じ頃、これらの計画に前のめりだった渡邊や25軍をシンガポールから追い出そうという動きが南方軍の手で加速していた。それに対抗し、「一体化」のアピールを狙う目的で、このような記事が出てきたのかもしれない(「さらば昭南」参照)。

オランダの計画した縦貫鉄道のひとつ。

佐藤の横断鉄道については別な稿で触れた。ここでは、二つの新聞記事も触れる縦貫鉄道について見ておきたい。佐藤自身(そして渡邊も)オランダ植民政府が「縦貫鉄道」を考えていたに触れている。具体的に何を見たのか、書かれていないが、佐藤はそれが自分たちの利益だけを優先したものと批判する(日本における「我田引鉄」を同時に戒める)。佐藤は目にしたが、手本にはしなかった。佐藤の縦貫鉄道、そして彼の描いたスマトラ の「国土計画」は空想譚の世界だ。オランダの植民政府の物とは根本から違う。全く別物だ。

佐藤の「国土計画」には「添付図参照」という言葉がしばしば出てくるが、現存する書類の中には見当たらないので、彼の書いた文章で言及される地点をグーグルマップに落として見た(下記のリンク)。スマトラの鉄道に関するものだけだが、どれほどぶっ飛んでいたか、わかるだろう。

幻の鉄道計画

地図でわかるように、スマトラ の入り口からして、佐藤の選択は奇想天外だ。佐藤も増永も、昭南、マレー半島との連絡が鉄道計画の目的であり、増永は島の東を流れる川を使った水運利用を考え、三つの川の中からカンパー河を選び、川港のペカンバルが昭南との連絡港だった。

佐藤は、島への入り口からして型破りだ。普通なら、当時ある港や航路から選ぼうとするものだが、佐藤は昭南から南西にまっすぐ進んだあたり、ほとんどそれだけの理由で、ほとんど何もない場所に新しく港を作る。それがスマトラの入り口、ダナイだ。そこから今度は西南西に、200キロまっすぐ行ったあたり、ペラナップの何もない場所に、大工業地帯を作り、横断線と縦貫線の交わる「中央駅」を設置する。ペラナップまでは幅100メートルの大運河、高速自動車道もダナイから並走する。ダナイ、ペラナップ、どちらももちろん地図には載るが、交通の要所ではない。佐藤は多分、これらの地名を地図の上に見つけ、自分の路線の要地として選んだ。選んだ理由は「まっすぐ」だった。

佐藤は「まっすぐ」に拘った。ここが佐藤の計画のもう一つの肝で、シンガポールとダナイは1時間、そしてダナイからペラナップまで2時間で結ぼうと考えていた。それには高速度交通が必要で、当時すでに満州を走っていた満鉄の「あじあ号」、構想されていた「弾丸列車」に近い広軌高速度鉄道を密林湿原を干拓した田園地帯に走らせるつもりだった。なので、この区間、ほとんど「まっすぐ」な新幹線規格を求めたのだ。

縦貫線はペラナップの中央駅から北と南へ向かう。北の路線が目指すのはこれまた新設の工業港のペナイだ。北既存鉄道とはさらに北のタンジュンバライで接続する。南ではムアラベリティで既存の鉄道に接続する。縦貫南線の南の方はオランダの計画に似てないこともないが、北からの接続を考えれば、自ずからルートは限られてくる。佐藤の路線は中央駅のあるペラナップが起点であり、ムアロではない。

佐藤の縦貫鉄道はよく言えばユニークで独創的、悪くいえば、全く実現性に欠ける夢物語。なのだが、こんな夢を25軍の軍政はスマトラで見ていたのだ。

スマトラ縦貫鉄道” への1件のフィードバック

コメントを残す