もうひとつの「横断鉄道」構想

スマトラを統治した25軍はやがて着工する増永元也の発想した横断鉄道以外に、もうひとつ別な「横断鉄道」も検討していた。翌年25軍がブキティンギに移駐するまで軍政監部の交通部長を務めた壺田修の言葉が次のように報道された。

将来はスマトラ縦貫鉄道を開通し豊富な資源の輸送を一層便利にする考えで計画を進めている。なおまた別に西海岸州パダンとリオ州パカンバルを繋ぐ中部横断鉄道も調査立案ずみで、工事着手を待つばかりとなっている。

大阪朝日新聞 1942年10月8日付

将来の縦貫鉄道、それとは別に中部横断鉄道があり、すでに42年10月の時点で「調査立案ずみで、工事着手を待つばかり」だった。壺田がここで触れる縦貫鉄道は江澤誠が著書で下記を引用する佐藤俊久による計画だ。

スマトラの将来に対する交通網計画に就ては晨に昭南マレー及スマトラの国土計画に於て計画せる所なるが今回スマトラ東部湿地帯の開拓計画を行うに当たりては先ず以て此の地方の交通網計画確立の必要あるを以て稍やや稍具体的に本計画を行う示針と為すものとす(略)

又今回スマトラ中部に於て開発せらるる石炭石油セメントの搬出に対して差当り此等の鉄道によりパカンバルに搬送し是より水運により各方面に運送せんとする計画にあるに於ては本交通網は一層其の重要性を深くし此際根本的に研究を要するものあるを以て此の方面の鉄道網に対しては特に注意せる所なるも関係当局に於ても特に研究あらんことを期待するものなり(略)本鉄道網は日本の南方統治及経営を主眼とし且つ日本及西欧大陸との連絡を考慮しマレースマトラ並にジャワを連ぬる大陸連絡鉄道の一部を為すものたる(後略)。

スマトラ中央部縦横断交通路計画とスマトラ東部湿地帯の開拓計画大綱並に日本人素質保持に対する考案(案)p1450〜1452

この42年10月の日付のはいる報告書の前月、佐藤は、引用部分冒頭で触れる「昭南マレー及スマトラ国土計画大綱(案)」を書いている。名前も発想も手法ものちにコンピュータ付きブルドーザー(田中角栄)のぶち上げた「日本列島改造論」を彷彿とさせるが、佐藤が「国土計画大綱」で展開した総論の中から、三つの緊急重点項目をさらに詳しく展開するのが10月の報告だ。内容はかぶる部分も多いが、下記で見るように、少し異なる点もある。

佐藤の名は25軍の軍政に関わる人間の名簿「軍政監部人名表」(42年10月分)に「無給嘱託」という待遇で「顧問」として記載されている。佐藤の隣には増永元也が「陸軍事務嘱託(勅待)」という待遇、やはり顧問として記録されている。2人がどんな関係だったのかわからない。2人は技師あがりの鉄道官僚であり、年齢も近いので、スマトラ以前に旧知の可能性もある。2人とも、それぞれの名前を挙げて言及はしないものの、それぞれの研究や計画、構想に精通していたことをうかがわせる記述が多数ある。佐藤の「国土建設計画大綱」は、9月の25軍旬報を除けば、増永の横断鉄道に言及する最も古い資料かもしれない。

増永と同時期、25軍の顧問を務めた佐藤俊久だが、詳しいことはあまりわからない。「日本占領下の北京都市計画」(越沢明)によれば、1905年に東京帝大工科土木工学科卒業し満鉄に入社する(増永はその2年後、やはり東京帝大工科の電気工学科を卒業、逓信省鉄道作業局に進んだ)。佐藤は満鉄鉄道部次長を経て、32年1月、新設された満鉄経済調査会の第3部(交通担当)主査に任命される。満鉄の経済調査会はすでにあった調査部とは別組織で、関東軍特務部と連携して「満洲国」の政策を立案し、誕生したばかりの傀儡国家を操縦した機関だ。

経済調査会長には、やはり国鉄マンで満鉄理事の十河信二が就任する。十河は増永の2年後の入省で、若い頃から後藤新平や島安次郎らと広軌化計画(のちの「弾丸列車」構想につながる)に関わり、戦後は54年に国鉄総裁に就任、64年に運転を開始した「新幹線の父」とも呼ばれる。佐藤はここで鉄道や道路、港湾、都市計画などを担当した。

広軌といえば、満鉄あがりの佐藤の目にはマレーやスマトラの既存の鉄道は「不十分にして堪え難きもの」と写り、軌間は狭いし、曲線半径が小さく勾配が急でどれも軽便軌道の域を出ないと手厳しい。「国土計画」では将来の殖産振興だけでなく、戦時下においても大量輸送を確保するため、即刻、圏内の鉄道の広軌(1435ミリ)への改軌を主張する。線路の曲がりも順次解消(曲線半径1000メートル以上。新幹線は2500から4000メートル)し、最急勾配は7‰を目指す。これらはどれも新幹線基準に近い規格であり、佐藤がここにどんな列車を走らせようとしていたのか、片鱗を嗅ぎ取ることができる。



大哈爾浜特別市の現況」(1935年)哈爾浜特別市公署編
佐藤は都市計画で公園緑地帯を大胆に配置した。ハルピンでは中心街の外周に幅2キロの緑地帯を設けた。スマトラでは「大和町」の仕切りに緑地が使われるはずだった。

33年から38年にかけ、佐藤は哈爾浜(ハルピン)の特別市公署工務処の処長として、自身のデザインした都市計画の実施に当たった。当時の部下に沼田征矢雄や山崎桂一などがいた。沼田によると佐藤は「都市計画のマニア」だったという。その後、佐藤は37年秋、北京特務機関からの要請で嘱託として山崎とともに「北京都市計画」(38年11月)を策定する。

佐藤らを北支軍に招いた経緯を越沢は、満鉄経済調査会での実績があり、関東軍との関係が深かったからではないかと推測する。もっと具体的には、佐藤を北京に呼んだのは渡邊渡だったと思われる。佐藤がハルピンの都市計画に関わる頃、渡邊は関東軍司令部付きでハルピン特務機関にいた。

越沢の記録する佐藤の足跡は渡邊のそれと重なりあう。37年から渡邊は北支軍特務部付き、北京特務機関に移る。39年からは興亜院の華北連絡部政務局長。佐藤はこの時期、興亜院華北連絡部の嘱託、前述の「北京都市計画」を作成した。25軍政のトップについた渡邊が旧知の間柄であり、満州や北京で都市計画の実績のある佐藤をシンガポールに招き、「国土計画」の策定をたのんだのだろう。渡邊の満州、北支時代からの付き合いがあり、スマトラへも多分、渡邊の引きできたのだろう。渡邊の日記を編纂した明石陽至はその解説で、佐藤を渡邊の「腹心」と書いている。

別稿で検討するように、渡邊が佐藤のぶち上げる共栄圏建設に共感し、スマトラの将来像を共有していた。「渡邊渡少将軍政(マラヤ・シンガポール)関係史・資料」で渡邊は「縦貫鉄道」や「大運河網」などの計画があったことを匂わせ、それらが道半ばで頓挫する無念さを書いている。渡邊は匂わすだけだが、佐藤は彼らの見ていた「夢」の正体を明かしてくれる。佐藤はかなりトンデモで誇大妄想な植民地開拓の夢を微に入り細に入り書き残している。

渡邊の「軍政関係史」を読んでいて、引っかかったのは「まず」という言葉だ。

現下建設資材難の時期において、まずスマトラ中部横断鉄道を着手することとなり。

渡邊「軍政関係史・史料」 p 163

資材が手に入りにくい現状ではあれもこれもは無理で、横断鉄道から「まず」取り掛かると渡邊は表現した。「まず」の向こうに渡邊は何を見ていたのか、彼は説明しない。これが終わったら、次は何に取り掛かるつもりだったのか。この鉄道はそれのみでは完結しない。どこへつながり、将来の完成ビジョンはなんだったのか。そもそも、彼らはどのくらい先を見ていたのか。「国土計画」の著者、佐藤は少なくとも20年先を見ていた。おそらく、渡邊などもそのくらいのスパン、20年後というかなり遠い先の将来を見て、「まず」横断鉄道にとりかかったのだろう。

「国土計画」で佐藤は25軍の占領地域、マレーとスマトラの国土開発がこれから永続する大東亜戦の勝敗の鍵を握ると位置づける。

南方統治地域の中核たる昭南(昭南等及び付近地域、以下同じ)マレー及びスマトラにおいて共栄圏の全体的国土計画の一部として計画するものにして大東亜戦争が永続するもの(一時平和の形式を取るも幾回となく大戦争が繰り返さるものなることを意味す)として大国防国家建設を目標とし国防経済を秀憲し計画す

p1231

これが佐藤の枠組みだ。平和が一時的に訪れるかもしれないが、大東亜戦争は永続する。それを勝ち抜くには大国防国家建設の一環としてシンガポールを核とする経済の総合開発が必要になる。「横断鉄道」の遠因は永続戦争を戦う国防国家の経済振興だ。

佐藤はマレーとスマトラを日本の南方経営の核と位置付け一体統治を掲げる。スマトラの将来については陸軍、政府の中でも意見が一致していなかった。スマトラをいまだ生まれざる「インドネシア」から引き剥がし、マレー半島、シンガポールなどとともに、当時の台湾や朝鮮などのような帝国の直轄領にしようとする意見が25軍首脳の間に強かった。スマトラの帰属問題はのちに総軍との対立につながり、横断鉄道に計画したように着工できなかった理由のひとつだと思われる。 佐藤にとってスマトラは食糧や鉱産資源などマレー半島に欠けるものを補うだけではなく、後述の「日本人の素質を維持」するための住宅地候補でもあった。佐藤が特にスマトラに興味を抱いたのは、多分、スマトラが未開であり、スマトラのことをほとんど知らなかったからだろう。増永も同様のことを言っている。

東南アジアの資源は高原地帯は別として、ビルマ、タイ、仏印、馬来ともすでに大体開発し尽くされています。然し、スマトラ、ボルネオ、ニューギニアはまだ未開発で、埋もれた資源が謎に包まれたまま残されています。

増永 東南アジアとその資源 1952年 鱒書房 p82

これらの背景のもと、佐藤の書いた「昭南マレー及スマトラの国土計画」に描かれるスマトラ共栄圏の姿を探り、鉄道に期待された役割、特に「横断鉄道」に関連する部分を考察する。(続く

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