スマトラ都市計画と「横断鉄道」

前稿に続き、佐藤俊久が42年9月に書いた「昭南マレー及びスマトラの国土計画」と翌月の報告書からスマトラの開発計画の全容と、その中で鉄道に期待された役割、そして「横断鉄道」に関連する部分を考察する。

●東岸大湿地帯の農地化

佐藤の目論みの大きな目玉はスマトラ島の東岸に広がる湿地帯ジャングルの干拓、農地化だ。戦後、秋田の八郎潟でも似たような農地の造成が行われたが、こちらは疫病の蔓延る熱帯のジャングルだ。この「海だか陸だかわからぬ未開」の大湿地帯がスマトラを北と南、西に分けてきた。これを干拓し農地にすれば、食糧の増産だけでなく、これまで孤立していた三つの地域をつなげることができる。

シンガポールを中心にスマトラとマレーの一体統治においても、この湿地帯が真ん中に居座り、邪魔をする。各地との連絡を阻むジャングルを干拓し、田んぼにし、その排水路を運河にし、掘り出した土で道路、鉄道を建設する。いまだ未開発の湿地帯は豊穣な農地に代わり、その過程で大規模な交通路が創設される。新しく生まれた交通路はさらに奥地のジャングルを切り開く道になる。それが佐藤の描いたスマトラの将来のシナリオだ。具体的には次のような過程の工事を考えていた。

1)リオー州開墾地灌漑及び排水建設。(調査期間:18ヶ月、着工:44年5月、完成は18年後の62年末)

マレーやシンガポールでは米が十分ではなく、戦前からタイやビルマからの輸入に頼っていた。シンガポール占領後、復旧したばかりの鉄道で、25軍はタイから米を緊急輸送しなければならなかった。地域内での食糧自給、米の増産は25軍軍政にとって緊急の課題だった。

佐藤はここでも、ほとんどスマトラ一本だ。マレー半島の東岸でも新たな農地の開拓は可能だとするが「調査未了」とし、「国土計画」の治水に関するページの大半をスマトラ東岸のジャングル湿地帯の干拓に割いている。これが佐藤の構想の肝であることは、翌月、42年10月にこの干拓計画だけについて「スマトラ東部湿地帯の開拓計画大綱(案)」を別に書いたことでも察せられる。

佐藤の計画はドレッジャーやコンベイヤーなどの機械を使い、ジャングルを切り払い、干拓し、水抜きの排水路を運河や用水路にする。掘り出した土は運河と並行する道路や鉄道の建設に使う大がかりな一石三鳥の計画で、約1000万haある平坦な土地のうち100万haを水田に変える目論みだった。 この事業だけに必要とされる労働力には「水田耕作に対し長所を有する」「朝鮮人」を500万人以上移植することを提案する。

2)スマトラ横断大運河、並走して道路、鉄道の建設(調査計画期間18ヶ月、44年5月着工、54年4月完成)

大湿地ジャングルの開拓は横断大運河の敷設と同時に進行する。運河の上幅は100メートル(底幅50メートル、水深6メートル)。シンガポール対岸のダナイ(Danai)に港を新設、そこからまっすぐ南西に約200キロ、ペラナプ村(Peranap)付近まで干拓作業と並行して運河を作る。掘り出した土は併設する「超高度自動車道路」(幅50メートルの複線式)の建設に利用する。さらに、将来、道路の外側に複線で鉄道を附設する。中部地方の資源の運搬に利用するほか、シンガポールとスマトラ西海岸、そして建設予定の日本人街(後述)への交通路になる。

3)縦貫大運河及び道路併設(調査計画18ヶ月、着工50年1月、完成62年12月)

東部の干拓事業の第3期は排水路兼交通路として、幅40メートル、底幅18メートル、深さ3メートルの運河を島の南北に縦貫させる。北部の起点は新工業都市のパナイ。そこから干拓地を縦貫し、南部のパレンバンまで運河の延長は800キロ(将来さらに1000余キロに延長)。浚渫した土は両側に設ける道路(幅30メートルと15メートルのもの)建設に利用。

(2)で運河、高速道路と並走して建設されるのが佐藤の「横断」鉄道だ。佐藤の「中央横断線」(360キロ、48年1月着手、工期は3年半)はシンガポールから南西へ45度、スマトラのダナイあたりに新設する港が起点だ。そこから南南西に、カンパー川の南、リオー州の低地湿地帯を横断する。タルックの手前、インドラギリ川沿いのプラナプ村あたりまではスマトラ横断運河と幅50メートルの「最高速自動車路」に並行する。そこから鉄道は高地をぐるっと迂回、炭鉱のあるサワルントに至る。そこで既存の西海岸線に接続しパダンに至る。

プラナプ村近辺はダナイから内陸へ200キロも入る場所だが、鉄道や道路、運河の横断線、縦貫線が交差する交通の要所(「中央駅」)になり、地の利を活かした内陸工業地帯(30平方キロ)が建設され、将来はシンガポールと「3時間以内」で結ばれると佐藤は書いている。後述の「日本人街」へは高速電車の支線が180キロ建設され、高速船と乗り継ぎ、シンガポールと5時間の連絡を目指す。

●鉄道

佐藤は9月の「国土計画」では20年後を見越し、いくつもの路線を提案するが、10月の交通に関する報告書では次のスマトラ3線に絞り、さらに深く考察する。

1)中央横断鉄道

ダナイからペラナップに新設のスマトラ中央工業地帯(中央横断運河の終点)、日本人街を経てパダンに至る。

2)中央縦貫鉄道

干拓により生まれるスマトラの大農耕地帯を南北に貫く。ペラナップから北へはペカンバル、コタテンガ、新工業港のパナイを経由、メダンに至る。南へは島の中央、山地と高地の間を貫通する。中央工業地帯や運河網と接続する。

3)東部縦貫鉄道

ペカンバルからジャンビを経て、南部のパレンバンに至る路線。ペカンバルから北に延伸、メダンとも連絡する。シンガポールとは1)の中央横断鉄道を経由し、スマトラ南部のパレンバン、北部のメダン、西部のパダンが鉄路(と連絡船)で結ばれる。マレーとスマトラだけでなくジャワとも連絡する「大陸連絡鉄道」を構成する。

●増永の横断路線

この10月の報告書で、佐藤は増永の描いた「横断鉄道」に何度か言及する。先頭で引用した「今回スマトラ中部に於て開発せらるる石炭石油セメントの搬出に対して差当り此等の鉄道によりパカンバルに搬送し是より水運により各方面に運送せんとする計画」も増永の計画のことだ。すでにかなり計画が進んでいたことは間違いない。

今回計画せらるるリオー州ペカンバルより炭鉱に至る鉄道の如きは前期計画鉄道網の第一号中央横断鉄道の建設目的に対する一部をなす地方的鉄道にしてその一部は将来の鉄道網に吸収するものなりとす。故にその建設に先立ち、将来の鉄道網に対し十分の検討を加え、然るのち、建設に着手することは最も緊要とするところなり。

p1456

佐藤は計画中の「ペカンバルから炭鉱に至る鉄道」の路線と、自身の提唱する「中央横断鉄道」とは重なる部分があり、そこは将来、自分の描く「中央横断線」に組み込まれるだろうから、「炭鉱鉄道」もしっかりとそれを十分に見越して路線を決めてほしいと求めている。佐藤の「中央横断線」と増永の路線が重なる具体的な部分はサワルントゥからタルック付近までの区間だ。佐藤は「炭鉱線」をつなぎと考えていたようで、将来、日本人街とシンガポールの間に「高速度電車」線が別に建設された時点で「炭鉱線」は貨物専用にするつもりだった。

佐藤が「ペカンバルから炭鉱に至る鉄道」に特に注文をつけたのはムアロからクアンタン渓谷の部分だ。佐藤は横断運河の関門や工業用水用、発電用としてクアンタン川にダムを建てるつもりだったので、渓谷は水没するかもしれない。路線はそれを考慮して決めろと言っている。

そこではたと思い出すのが、42年11月に南方総軍から発注された航空測量のための地図だ。そこには増永のルートとは異なる「別ルート」が記載されている。別ルートは佐藤がここで言及するムアロからクアンタン渓谷の部分だ。上記のようにクアンタン渓谷をダムで水没させるつもりなら、渓谷を外す別ルートは合点がいく。また、タルックを経由する点も、佐藤の「中央横断鉄道」路線に近い。大運河の終点、縦貫路線と交差する交通の要所となるペラナップはタルックからほんの目と鼻の先だ。総軍が偵察を命じた別ルートは将来この部分が「中央横断鉄道」に組み込まれることを見越し、水没するクアンタン渓谷を避けるルートとして、佐藤が提案したのかもしれない。佐藤はこの測量が発注される頃、11月17日、渡邊の見送りでシンガポール、センバワン飛行場から出立した(*1)。

渡邊は当日の日記にこう書いている。

哈爾浜以来北支より至る(?)昭南迄、吾人のため犬馬の労をとられたたる先人に対し厚く心から感謝せざるを得ざるなり

p 295 明石陽至編 渡邊渡関係史・資料 第1巻 1998年 龍渓書舎

●大和町

佐藤の「中央横断線」に課すもうひとつの役割はシンガポールで働く日本人の居住地との連絡だ。「国土計画」では20年後に50万人の日本人移民が圏内に暮らすと見込む。熱帯の「退嬰気分」に染まらず、「百年、千年の将来において日本人の健康を優良に保持し、なお健全なる日本精神と怜悧なる頭脳を琢磨」(p 1426)するためには、「衛生的にも精神的にも」現地民から離れ、日本的生活を営む居住区が必要になる。その条件は

ー標高900メートル以上

ー年間雨量2000ミリ以下

3)主人の勤務地から最大5〜6時間以内。週末に主人はうちに帰り家族と過ごし、翌週、勤務地に戻る。夫人は水曜に主人の勤務地を訪れる。これらを可能にするため、高速鉄道やバスが想定された。

佐藤がシンガポールで働く日本人の居住地としてスマトラ西海岸に近いソロ(Solok)あたりを候補に挙げている。シンガポールからは「快速船」で104キロ離れた対岸のダナイに1時間半以内で到達、そこから横断大運河、道路および中央横断鉄道のいずれかにより「最急行にて5時間以内(乗換え時間とも)」(p1428)で連絡する。

10月の「日本人素質保持に対する考案」では、より具体的な都市計画を提案。佐藤は「大和町(やまとまち)」と呼ぶ日本人街の候補地として、ソロの南、アラハン・パンジャン(Alahan Panjang)の高原地帯を挙げる。ディアテェー湖(Danau di Ateh)と呼ばれる湖の周辺、標高1000〜1500メートル。この付近1400平方キロの地域で適地を探す(*2)。

佐藤は分散型の都市計画を考えており、それぞれの大和町は4キロ四方の16平方キロメートル。人口は25000人を限度とする。5人家族として5000戸。市街地の40%は公園や道路など公共施設にするので、それぞれの家の敷地は1920平方メートル(580坪)。この半分に住宅を建て、残りは果樹園、菜園などの農地にする。家庭は「日本古来の帰農生活」を復興し、「大和魂を滋養」する場所であり、食物自給のためにも各戸で庭いじりが奨励される。

人口がそれを上回るときは、5、6キロ離れたところに新たな「大和町」を作り、電車やバスで連絡する。鉄道やバスの停車場はそれぞれの大和町の中心に設け、その周辺に小商店街を作る。それぞれの大和町どうしの間には緑地帯が設けられ、直接繋がらないようにする。国民学校はそれぞれの大和町に3校設けられるが、中等教育など必要な公共施設は複数の大和町で共有する。大和町の集まりを大和大市(やまとおおまち)と佐藤は名付ける。

現地人は大和町への往来は許されるが、居住部落は大和町から遠ざける。

佐藤の想定ではシンガポールと中央工業地帯で働く日本人とその家族の数は60万。そのうち3分の1がこの高原地帯に居住すると想定した。上記の大和町はそれぞれ25000人が限度なので、それが8個必要になる。大和町同士の間に設ける緑地帯などを含めても、ここの「大和大市」に必要な土地は200平方キロであり、アラハン・パンジャンには十分な土地がある(p 1571)。

大和町とシンガポールを結ぶのが佐藤の「中央横断鉄道」構想だ。5時間以内で連絡するため高速鉄道、しかも電車の導入が欠かせない。最高時速150キロ、平均130キロでダナイとの間、280キロを3時間以内で走破する。シンガポールから週末をアラハン・パンジャンで過ごすための帰宅客、3万人をさばくために、佐藤は100人乗りの車両6両(600人)を一編成とする列車が50本必要と弾く。これを約2分間隔で運転すれば2時間以内ですみ、車両は500くらいで賄えるだろうと佐藤は計算する。建設費は鉄道からの直接的な上りだけでなく、圏内経済全体で負担するのが適当だとする。

25軍の軍政トップなどが描いていた夢の正体はスマトラ共栄圏だった。増永の路線を「まず」作り、スマトラ中部から石炭や石油、セメントなどを「差し当たり」ペカンバルに搬送する。とりあえず作った「炭鉱線」の一部は将来、佐藤の描いた「中央横断線」に吸収され、「大和町大市」からダナイを経てシンガポールへ日本人労働者を運ぶはずだった。

もちろん、佐藤の「中央横断線」は幻に終わる。 ペラナップの中央工業地帯もアラハン・パンジャンの大和町も建設されることはなかった。  

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  1. そこからどこへ向かい何をやっていたのか、佐藤のその後の足取りはよくわからないが、陣中新聞「建設戦」最終号(12月8日号)に載る「昭南神社忠霊塔建立資金」献金者リストには「北支興亜院連絡部」という肩書きで掲載されている。5円、10円という献金者が多い中、佐藤は千円を献金している。 ↩︎
  2. 佐藤が「大和町」の候補地として挙げたアラハン・パンジャンは25軍統治下の43年6月19日、二つの大きな地震、「双子地震(double earthquake)」に襲われた。マグニチュードはそれぞれ7.5、7.8とも言われる。被害が軽かったのか、25軍の記録にはこの地震は全く言及されない。
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